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|海域= [[太平洋]]、[[ベーリング海]]
|国= {{USA}}
|諸島= [[ニア諸島]]<ref>{{Cite web |和書|author=鶴見英策 |url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%83%83%E3%83%84%E5%B3%B6-26023#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 |title=アッツ島 |accessdate=2019-06-25 |website=[[コトバンク]] |work=日本大百科全書(ニッポニカ)}}</ref>
|地図 = [[Image:AKMap-doton-AttuStation.PNG|270px]]
}}
'''アッツ島'''(アッツとう、{{Lang-en-short|Attu Island}})は、[[アラスカ州]]・[[アリューシャン列島]]の[[ニア諸島]]最西部にある[[アメリカ合衆国|アメリカ]]領の[[島]]。
 
== 概略 ==
[[第二次世界大戦]]中の[[1943年]]、[[日本軍]]と[[アメリカ合衆国軍|アメリカ軍]]が激戦を展開した島として知られる([[アッツ島の戦い]])。第二次世界大戦において北米大陸で唯一の地上戦が行われた場所として、1985年に[[アメリカ合衆国国定歴史建造物|アメリカ合衆国国定歴史ランドマーク]] (National Historic Landmark) に指定されている<ref name="attuyomiu">アッツ島迫る「玉砕」…米軍上陸直前の写真残る 読売新聞 2015年7月11日(土)20時48分配信</ref>。第二次世界大戦までは[[アレウト族]]が定住していたが、日本による占領期に島民は日本本土で抑留され、戦後は米国政府が帰還を認めなかった。島はアメリカの軍事拠点となったが、2010年に[[アメリカ沿岸警備隊]]の基地が閉鎖され、「アメリカ合衆国最大の[[無人島]]」となった<ref name="publicbroadcasting.net">{{cite news|url=http://archive.kucb.org/news/article/alaska-coast-guard-says-goodbye-to-its-last-loran-station//|archive-url=https://web.archive.org/web/20170625091725/http://archive.kucb.org/news/article/alaska-coast-guard-says-goodbye-to-its-last-loran-station//|url-status=dead|archive-date=June 25, 2017|title=Alaska Coast Guard says goodbye to its last LORAN station|publisher=Unalaska Community Broadcasting|work=KUCB News|date=August 27, 2010}} (archived June 25, 2017)</ref>。海鳥の楽園としても知られており、1980年に自然保護区(アラスカ海洋国立野生生物保護区の一部)に指定されている。入島は規制されている。
[[第二次世界大戦]]中の[[1942年]]6月に、アメリカ領土として初めて[[日本軍]]が上陸し占領した([[日本軍によるアッツ島の占領]])。これは第二次世界大戦においてアメリカ本土に日本軍を含む枢軸国軍が上陸、占領した初めてのことである。また、第二次世界大戦において北米大陸で唯一の地上戦が行われた場所として、1985年に[[アメリカ合衆国国定歴史建造物|アメリカ合衆国国定歴史ランドマーク]] (National Historic Landmark) に指定されている<ref name="attuyomiu">アッツ島迫る「玉砕」…米軍上陸直前の写真残る 読売新聞 2015年7月11日(土)20時48分配信</ref>。
 
[[第二次世界大戦]]中の[[1943年]]5月[[日本軍]]とこれを奪還すべく[[アメリカ合衆国軍|アメリカ軍]]と日本軍が激戦を展開した島として知られる([[アッツ島の戦い]])。第二次世界大戦にいて北米大陸で唯一の地上戦が行われた場所として、1985年に[[アメリカ合衆国国定歴史建造物|アメリカ合衆国国定歴史ランドマーク]] (National Historic Landmark) に指定されている<ref name="attuyomiu">アッツ島迫る「玉砕」…米軍上陸直前の写真残る 読売新聞 2015年7月11日(土)20時48分配信</ref>。第二次世界大戦までは[[アレウト族]]が定住していたが、日本による占領期に島民は日本本土で抑留され、戦後は米国アメリカ政府が帰還を認めなかった。島はアメリカの軍事拠点となったが、2010年に[[アメリカ沿岸警備隊]]の基地が閉鎖され、「アメリカ合衆国最大の[[無人島]]」となった<ref name="publicbroadcasting.net">{{cite news|url=http://archive.kucb.org/news/article/alaska-coast-guard-says-goodbye-to-its-last-loran-station//|archive-url=https://web.archive.org/web/20170625091725/http://archive.kucb.org/news/article/alaska-coast-guard-says-goodbye-to-its-last-loran-station//|url-status=dead|archive-date=June 25, 2017|title=Alaska Coast Guard says goodbye to its last LORAN station|publisher=Unalaska Community Broadcasting|work=KUCB News|date=August 27, 2010}} (archived June 25, 2017)</ref>。海鳥の楽園としても知られており、1980年に自然保護区(アラスカ海洋国立野生生物保護区の一部)に指定されている。入島は規制されている。
 
== 地理 ==
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4 - ニズキ島
5 - シェムリャ島
6 - [[バダーディア]]
7~15 - ラット諸島
7 - [[キスカ島]]
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アメリカ合衆国の大部分が属する[[西半球]]からは[[180度経線]]を越えて[[東半球]]に入っている。西部アリューシャン列島は[[UTC-10]]の[[時間帯 (標準時)|タイムゾーン]]([[ハワイ・アリューシャン標準時]])に属しており、[[国際日付変更線]]はアッツ島の西側を通過する。
 
アッツ島は、アラスカ本土から約1800km離れている。アリューシャン列島のつながりの中で、アッツ島の西にある島は約335km離れた[[メードヌイ島]]([[コマンドルスキー諸島]])で、ここは[[ロシア]]領である。[[アンカレッジ]]からは約 2,400 km、アラスカ州の州都[[ジュノー (アラスカ州)|ジュノー]]からは約 3,200 km、[[ニューヨーク|ニューヨーク市]]からは約 7,800 km の距離にある。
 
アッツ島は、長さ(東西)48km、幅(南北)13km - 24km<ref>{{citeCite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%83%83%E3%83%84%5B%E5%B3%B6%5D-815389|title=アッツ(島)|work=世界大百科事典 第2版|author=矢ヶ崎典隆|accessdate=2020-8-5}}</ref>。面積は 893 km<sup>2</sup> で、米国で23番目に大きな島である。
{{Gallery
|File:Txu-pclmaps-topo-us-attu-1970.jpg|ニア諸島の地図(1970年)
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[[File:Attu village 1937.jpg|thumb|アッツ島の村(1937年)]]
[[File:AttuChurch1938.jpg|thumb|ロシア正教の教会(1938年)]]
島の名は[[アレウト語]]で Atan と言う<ref name="Bergsland">{{cite book|title=Aleut Dictionary|last=Bergsland|first=Knut|publisher=Alaska Native Language Center|year=1994|isbn=1-5550-0047-9|location=Fairbanks|pages=|authorlink=Knut Bergsland}}</ref>。初期のロシア人たちは {{lang|ru|Остров Атту}} (Ostrov Attu) と記録した<ref name="gnis"/>。なお、[[イギリス海軍]]の[[ジェームズ・クック]]は1785年に Atakou の名で記録している。
 
島にある多数の遺跡の考古学的調査によれば、[[先コロンブス期]]には2,000人から5,000人の[[アレウト族]](ウナンガン人)が暮らしていたと推定されている<ref>{{Cite book|title=Human Impacts on Ancient Marine Ecosystems: A Global Perspective|last=Corbett|first=Debra G.|last2=Causey|first2=Douglas|last3=Clementz|first3=Mark|last4=Koch|first4=Paul L.|last5=Doroff|first5=Angela|last6=Lefèvre|first6=Christine|last7=West|first7=Dixie|publisher=[[University of California Press]]|year=2008|isbn=0-5202-5343-4|editor-last=Rick|editor-first=Torben C.|location=|pages=|chapter=Aleut Hunters, Sea Otters, and Sea Cows: THREE THOUSAND YEARS OF INTERACTIONS IN THE WESTERN ALEUTIAN ISLANDS, ALASKA|display-authors=1|editor-last2=Erlandson|editor-first2=John M.}}</ref>。
 
=== ロシア人との接触以後 ===
[[カムチャッカ]]に最も近いという立地から、[[アリューシャン列島]]の中では[[ロシア人]]によって最初に探索された島となった。文献記録によれば、1741年に探検船が遠距離からこの島を望見した<ref name="gnis">{{Cite GNIS|1416084|Attu Island| accessdate = 2020-808-505}}</ref>。[[1742年]]春に、ロシアの探検家{{仮リンク|アレクセイ・チリコフ|en|Aleksei Chirikov}}がこの島を「聖テオドロスの島」と命名したのが「公式な発見」とされる<ref name="gnis"/>。
 
1745年、{{仮リンク|ミハイル・ネヴォドチコフ|ru|Неводчиков, Михаил Васильевич}}が率いる{{仮リンク|プロミュシュレンニキ|en|Promyshlenniki}}たち([[毛皮貿易]]に従事する、商人・猟師・船乗り・傭兵の一団。ロシア人のほか[[シベリア先住民]]たちも含まれた)が島を訪れたのが「最初の上陸」の記録である<ref name="gnis"/>。ロシア人たちは島に数年間滞在し、[[ラッコ]]猟に従事した。ロシア人はしばしば地元住民と衝突した。貿易商人たちの「最初の波」が去ったあと、ヨーロッパ人たちの船はこの島に注意を払わなくなった。
 
ロシアはこの島を流刑地としても使った。また、島には[[ロシア正教]]がもたらされ、島民はスラブ系の氏名を名乗るようになった。
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=== 第二次世界大戦前 ===
第二次世界大戦が始まるまで、島の住民はほとんどが[[アレウト族]]で、{{仮リンク|チチャゴフ湾|en|Chichagof Harbor}}に面して村があった。
 
1941年3月、アラスカの[[インディアン事務局]]は、アッツ島に初めて学校を開設することを決定した<ref name="noguchi-oshima-2019"/>{{rp|106}}。教師としてアッツ島への赴任を命じられたのが、[[コディアク島]]で勤務していたエッタ・ジョーンズで、ジョーンズ夫妻は同年8月にアッツ島へ移住した<ref name="noguchi-oshima-2019"/>{{rp|86}}<ref>"[https://www.nps.gov/aleu/learn/historyculture/upload/4-Attu-Before-the-War.pdf Attu Before the War]." [[National Park Service]]. Retrieved on March 12, 2017. "The BIA school had a white teacher and her husband."</ref>。
 
アリューシャン方面を訪れる日本人もいた。1931年にアッツ島の民俗学的調査を行った[[近藤信興]]によれば、明治時代には「吉本」という日本人がアッツ島に暮らし、簡単な日本語や日本の歌を知っている島民もいたという<ref name="noguchi-oshima-2019"/>{{rp|106}}。島民は日本人に対して好感を持っているという主張もあれば、反感を持ち信用していないという記録もある<ref name="noguchi-oshima-2019"/>{{rp|106}}。日本は1930年代、アリューシャン海域に農林省の調査船「[[白鳳丸]]」を派遣しており、アッツ島にも寄港していることが確認できる<ref name="noguchi-oshima-2019"/>{{rp|106}}。オットセイの回遊調査や密猟取り締まりを目的としていたが、アメリカ軍の軍備などの情報を収集する任務も課されていたという<ref name="noguchi-oshima-2019"/>{{rp|106}}。
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{{main|アリューシャン方面の戦い|日本軍によるアッツ島の占領|アッツ島の戦い}}
[[File:Capture of Attu 1943.jpg|thumb|180px|[[アッツ島の戦い]]の戦況図(日本軍の最期の突撃が赤)。図示されているのは島の東部で、アッツの村や、マサカー・ベイなどが示されている。]]
1942年6月7日、日本軍はアッツ島に抵抗を受けずに上陸し占領した(翌日には[[キスカ島]]も占領した)。第二次世界大戦における初の[[枢軸国]]によるアメリカ領土占領であった。
 
アッツ島には42人のアレウト族の住民と、2人の白人の住民がいた{{efn|英語版wikipedia "Attu Island" (18:44, 2 July 2020 版)では "45 native Aleuts and two white Americans" とあるが、出典<ref name="noguchi-oshima-2019">{{Cite journal|和書 |author=野口泰弥, 大島稔 |title=日本人によるアリュート民族の研究(1) : 春日部薫著『アリュート族に関する報告』(1943年)と注釈 |url=https://doi.org/10.34330/hoppohmbulletin.28.0_85 |journal=北海道立北方民族博物館研究紀要 |issn=0918-3159 |publisher=北海道立北方民族博物館 |year=2019 |volume=28 |pages=85-110 |naid=130007691377 |doi=10.34330/hoppohmbulletin.28.0_85 |accessdate=2020-08-19}}</ref>{{rp|86}}に従って改めた。}}。2人の白人は夫婦で、夫のチャールズ・フォスター・ジョーンズ(Charles Foster Jones, [[オハイオ州]]出身、1879年 - 1942年)は無線技士、妻のエッタ(Etta, [[ニュージャージー州]]出身、1879年 - 1965年)は教師で<ref name=":0">{{Cite book|title=Last Letters from Attu: The True Story of Etta Jones, Alaska Pioneer and Japanese POW|last=Breu|first=Mary|publisher=[[Alaska Northwest Books]]|year=2009|isbn=0-8824-0810-0|location=|pages=}}</ref>、看護師を兼ねていた<ref name="noguchi-oshima-2019"/>{{rp|89}}。チャールズ・フォスター・ジョーンズは、日本による占領直後に死亡している{{efn|英語版wikipediaでは、エッタの著書を出典に付して、日本軍によって殺害されたとしている<ref name=":0" />。杉山正己の著書では、日本軍による取り調べ直後に自殺あるいは他殺したと、死因については保留しているという<ref name="noguchi-oshima-2019"/>{{rp|106}}。}}。
 
日本軍はキスカ島に一旦部隊を集結させてアッツ島を無人化することにし、島民たちを日本本土に移送することにした。アレウトの住民40人は1942年9月17日に島から出航し、[[北海道]][[小樽市]]に移送された(後述)。唯一の白人であったエッタ・ジョーンズは[[神奈川県]][[横浜市]]の[[バンドホテル]]に収容された(ここには[[ラバウルの戦い]]で捕らえられたオーストラリア人捕虜たちも収容されており、エッタはオーストラリア人たちとともに戦争の終わりまで収容先を移動した)<ref name=":0" />。
 
1943年5月12日にアッツ島に日本軍の5倍の人員を持つアメリカ軍が上陸し、[[アッツ島の戦い]]が繰り広げられた。日本軍にとってこの島を守る戦略的意義は薄く、増援は断られ、5月29日に日本軍の最後の突撃が行われ、組織的抵抗は終了。5月30日、アメリカ軍は島の占領を宣言した。日本の[[大本営発表]]において、日本軍守備隊の「[[玉砕]]」という表現が初めて使われた。アッツ島では、奪回を目指したアメリカ軍によって、アッツの村が破壊された<ref name="suzuki-2011"/>。
 
アッツ島を奪回した[[アメリカ陸軍航空軍]](USAAF)は、アレクセイポイント陸軍飛行場{{enlink|Alexai Point Army Airfield}}を建設。1943年7月10日に[[千島列島]]への空襲の基地として使用した。これは[[ドゥーリトル空襲]]以来の[[日本本土空襲|日本領土への空襲]]であった。この基地はその後も出撃拠点として使用された<ref name="nrhpinv2"/>。
 
=== 第二次世界大戦後 ===
戦争が終わった時、小樽で抑留されていたアッツ島民で生き残っていたのは、25人であった。合衆国政府はかれらのアッツ島帰還を認めず、アリューシャン列島の別の島に移送した(後述)。背景としては、冷戦へと発展していく米ソ対立を前に、アリューシャン列島の西半分を無人とする方針があったとされる<ref name="suzuki-2011"/>。
 
[[1953年]]には日本の遺骨収集団が戦後初上陸。その後、[[1978年]]にも政府(厚生省援護局)の慰霊巡拝団が訪問し、遺骨収集を行っている<ref>いま全島が鎮魂の霊園に アッツ・キスカの33年『朝日新聞』1978年(昭和53年)8月9日朝刊、13版、22面</ref>。
 
合衆国政府はアッツ島南端のセオドアポイントに[[LORAN]]ステーションを建設することを決定した。この施設には、[[アメリカ沿岸警備隊]]の約20人が配置された。基地は1954年にカスコ・コーヴ{{enlink|Casco Cove Coast Guard Station}}に、1960年にマサカー・ベイ{{enlink|Massacre Bay (Alaska)}}に移転した。
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|title=Attu Battlefield and U.S. Army and Navy Airfields on Attu |accessdate=2008-01-08|work=National Historic Landmark summary listing|publisher=National Park Service}}</ref>。
 
[[1987年]]、[[アメリカ合衆国内務省|米国内務省]]の承認を得て、[[日本政府]]はアッツ島の戦いを記念した「北太平洋戦没者の碑」を玉砕の地である雀ケ丘(英語名エンジニア・ヒル)に建てた。碑文には日本語と英語で「さきの大戦において北太平洋の諸島及び海域で戦没した人々をしのび平和への思いをこめてこの碑を建立する」との銘が刻まれた<ref name="korosho">{{citeCite web|和書|url=https://www.mhlw.go.jp/bunya/engo/seido01/ireihi10.html|title=戦没者慰霊事業:北太平洋戦没者の碑|publisher=厚生労働省|accessdate=2020-8-5}}</ref>。
 
2007年7月、島で日本兵のブーツと足の骨が発見され、2008年5月23日には、さらに2人の日本兵の遺体が米国沿岸警備隊員(史跡保存チームの記録員・広報官)によって回収された<ref>[http://www.kmxt.org/index.php?option=com_content&task=view&id=109 Kodiak Coast Guardsman Helps Uncover Attu Remains], KMXT-Radio(2008-05-29)</ref>。埋葬地ではより多くの遺体が発見され、後に改葬する計画が立てられた<ref>{{Cite news|url=http://www.cnn.com/2008/US/06/03/aleutian.island.graves.ap/index.html|title=Japan seeks WWII soldiers' remains on U.S. soil|last=|first=|date=June 3, 2008|work=CNN|access-date=|archive-url=https://web.archive.org/web/20080604164614/http://www.cnn.com/2008/US/06/03/aleutian.island.graves.ap/index.html|archive-date=June 4, 2008|agency=[[Associated Press]]}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://search.japantimes.co.jp/cgi-bin/nn20080604f2.html|title=U.S. helps search for Japanese dead on Attu|last=D'Oro|first=Rachel|date=June 4, 2008|work=[[The Japan Times]]|access-date=|archive-url=https://web.archive.org/web/20110606131609/https://search.japantimes.co.jp/cgi-bin/nn20080604f2.html|archive-date=June 6, 2011|agency=[[Associated Press]]}}</ref><ref>
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| agency = [[Associated Press]]}}</ref>。
 
[[2010年]]8月1日、アッツ島の米国沿岸警備隊LORANステーションが完全運用を停止した。2010年8月27日に基地は廃止されて職員が去り、島には住民がいなくなった<ref name="publicbroadcasting.net" />。また同年8月12日に放送された[[NHKスペシャル]]『玉砕 隠された真実』の制作にあたっては、[[日本放送協会|NHK]]と[[アメリカ合衆国連邦政府|アメリカ合衆国政府]]との交渉により上陸・撮影の許可が下りている。
 
2010年8月1日、アッツ島の米国沿岸警備隊LORANステーションが完全に運用を停止した。2010年8月27日に基地は廃止されて職員が去り、島には住民がいなくなった<ref name="publicbroadcasting.net"/>。
 
{{Gallery
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== 島民の抑留と戦後 ==
アレウト住民40人{{efn|英語版wikipediaでは" 42 Attu inhabitants who survived the Japanese invasion"とあるが、出典<ref name="noguchi-oshima-2019"/>{{rp|86}}に従って改めた。}}、1942年9月17日に「陽光丸」でアッツを出航、キスカ島で「長田丸」に乗り換えさせられ、9月20日にキスカ島を出港した<ref name="noguchi-oshima-2019"/>{{rp|86}}。船は[[北海道]][[小樽港]]に入港し、[[日本での敵国人の抑留]]政策の一環として、アレウトたちは[[小樽市]]内に収容されることになった。当初は若竹町(現在の勝納町)の木造施設に収容され、1944年に清水町に移された<ref name="doshin-yokuryu4">「<消えた外国人 戦時の抑留>4 アリュート 異郷で病魔 犠牲次々」『北海道新聞』2016年8月14日</ref>。アレウトたちは占領時にすでに[[結核]]を患っている者が多く<ref name="noguchi-oshima-2019"/>{{rp|87}}、慣れない環境、乏しい食料事情の中で多くが亡くなった。小樽に抑留されたアリューレウトは、小樽で生まれた5人を含めて45人であり、うち20人が抑留中に命を落としたという(小樽で生まれ、生き延びたのは1人だけであった)<ref name="doshin-yokuryu4"/>{{efn|なお、日本軍の侵攻を受けたアメリカ合衆国はアリューシャン列島からアレウト族住民880人を[[アラスカ州南東部]]の収容所に移動したが、約75人が感染症などによって収容所で死亡した<ref>Ryan Madden, "'The Government's Industry': Alaska Natives and Pribilof Sealing during World War II." ''Pacific Northwest Quarterly'' 91.4 (2000): 202-209. [https://www.jstor.org/stable/40492595 in jstor]</ref><ref>{{cite web|url=https://www.nps.gov/aleu/learn/historyculture/unangan-internment.htm|title=Evacuation and Internment, 1942-1945 - Aleutian World War II National Historic Area (U.S. National Park Service)|website=nps.gov|accessdate=2020-08-19}}</ref><ref>http://www.miamiherald.com/news/nation-world/article156740129.html</ref>}}。
 
小樽に移されていたアレウトの島民は、戦争が終わった時25人が生き残っていた<ref name="suzuki-2011">{{citeCite web|和書|url=https://www.jnpc.or.jp/journal/interviews/22571|title=日米の争いの谷間に傷つく 忘れえぬ“玉砕”の影にいた人々|author=鈴木顕介|date=2011-2|publisher=日本記者クラブ|accessdate=2020-8-5}}</ref>。合衆国当局はかれらの置かれた状況を把握していなかったと言明した<ref>{{cite news|url=http://archives.chicagotribune.com/1943/08/08/page/13/article/attu-mystery-what-happened-to-45-indians|title=Attu Mystery: What Happened to 45 Indians?|newspaper=[[Chicago Tribune]]|date=1943-08-08|page=13}} - [http://archives.chicagotribune.com/1943/08/08/page/13/large.jpg Page view]</ref>。合衆国政府ははアッツ島の村を再建維持するには十分な人数がいないとして帰島を認めず、850km離れた[[アトカ島]]に送られた<ref name="doshin-yokuryu5">「<消えた外国人 戦時の抑留>5 狂った人生 きずな、風化する前に」『北海道新聞』2016年8月15日</ref>。
 
== 記念碑 ==
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うち5つは日本(日本人)によって建てられたもので、4つまでがエンジニア・ヒルにある<ref name="cloe-2017">{{cite book|url=https://www.nps.gov/aleu/planyourvisit/upload/Attu-Forgotten-Battle-Optimized-508.pdf|title=Attu, the Forgotten Battle|author=John Haile Cloe||publisher=Department of the Interior, National Park Service, Alaska Affiliated Areas, Aleutian World War II National Historic Area|isbn=0-9965837-3-4|year=2017|accessdate=2020-8-6}}</ref>{{rp|135, 173}}。
*最も大きなものは1982年に日本政府が建てた「北太平洋戦没者の碑」(英語ではPeace Memorial)である<ref name="cloe-2017"/>{{rp|135, 173}}。[[厚生労働省]]は「北太平洋戦没者の碑」の清掃・巡回等を[[合衆国魚類野生生物局]]に委託している<ref name="korosho"/>)。
*大村紀二軍医中尉の記念碑。家族が設置したと思われるもので、2013年時点でかなり劣化しており、2016年には行方不明になっている<ref name="cloe-2017"/>{{rp|173-174}}。
*1953年に[[フォート・リチャードソン国立墓地]](アンカレッジ)に埋葬されていた日本人235人の遺体(アッツ島での戦死者)が荼毘に付されたことを記念した「鎮魂」の石版<ref name="cloe-2017"/>{{rp|173-174}}
*1978年に北海道知事[[堂垣内尚弘]]の名と「鎮魂」の文字を記した青銅製の銘板<ref name="cloe-2017"/>{{rp|173-174}}。
 
戦闘が終わって間もなく、アメリカ軍は戦場に解説ネルを立てたが、その中にはアッツ村があった場所を示すものと、[[山崎保代]]大佐陸軍中将の勇敢さを讃えるものがあった<ref name="cloe-2017"/>{{rp|135}}。これらのパネルは1950年にコンクリートの台座に置かれた青銅製の[[銘板]])に置き換えられた<ref name="cloe-2017"/>{{rp|135}}。
 
山崎大佐陸軍中将を讃えるものは、2か所にあるが、摩耗が激しい<ref name="cloe-2017"/>{{rp|173}}。
*戦死した地点(Clevesy Pass の麓)
*エンジニアヒル
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かつての沿岸警備隊の基地には4つの記念碑がある<ref name="cloe-2017"/>{{rp|135}}。
*1つはエリック・ネルソン准将(1924年に初の航空機による世界一周を成し遂げたパイロットの一人)を讃える記念碑であるが来歴は不明である<ref name="cloe-2017"/>{{rp|135}}。
*別の記念碑は1981年に、[[アメリカ海軍]][[チャプレン]]が「アリューシャンでアメリカのために戦った人を讃える記念碑がない」と発言したことに触発されて建てられたものである<ref name="cloe-2017"/>{{rp|135}}。アッツ島の戦いは、アメリカではしばしば「忘れられた戦闘 (forgotten battle)」という言葉とともに語られる。
*第3の記念碑は1993年6月、アメリカ軍の退役軍人、アリュート人の生存者、山崎大佐陸軍中将の息子を含む日本人代表団が列席した追悼式で捧げられたもので、アッツで戦い死んだすべての人を讃える<ref name="cloe-2017"/>{{rp|135}}。
*4番目の記念碑は第17歩兵連隊の退役軍人 Bill Jones (アッツ島の戦いで負傷した)が、彼とともに戦い死んだ人々を讃える。
 
このほか、以下のものがある。
*Clevesy Pass の麓には、別の退役軍人グループが第50工兵連隊を讃える標識を立てた<ref name="cloe-2017"/>{{rp|136}}。
*Bill Jones が死去した時、退役軍人(朝鮮戦争参加者)の Jack Jonas は、"Japanese Peace Memorial" を撤去しようという主張を始めた<ref name="cloe-2017"/>{{rp|137}}。それが不可能であると判明すると、Jonas はアメリカ人を讃える同様の記念碑を建てることとし、[[アラスカ州]][[合衆国魚類野生生物局]]もそれならば可能であると認めた<ref name="cloe-2017"/>{{rp|137}}。2013年6月、アッツ島の戦いで[[名誉勲章]]を授賞した[[:en:Joe P. Martínez|Joe P. Martínez]]二等兵を讃える記念碑がHenderson River の川岸に建てられるとともに、付近に4枚の解説版(それぞれアリューシャン方面の戦い、アッツ島の戦い、アリュート人の抑留、マルティネス二等兵についての)が建てられた<ref name="cloe-2017"/>{{rp|137}}。
 
== 人口 ==
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|footnote=U.S. Decennial Census<ref name="DecennialCensus">{{cite web|url=https://www.census.gov/programs-surveys/decennial-census.html|title=Census of Population and Housing|publisher=Census.gov|accessdate=June 4, 2015|df=}}</ref>
}}
アッツ島が最初に米国の[[国勢調査]]に登場するのは1880年調査で、[[非法人地域|法人化されていない]]アレウト族の村 "Attoo" として登場する<ref>{{Cite book|url=http://dggs.alaska.gov/webpubs/usgs/p/text/p0567.pdf|title=Dictionary of Alaska place names|last=Orth|first=Donald J.|publisher=[[U.S. Government Printing Office]]|year=1971|isbn=|location=Washington, D.C.|pages=}}</ref>。当時の村は、チチャゴフ湾の西側にあったと考えられる。107人の人口があり、74人のアレウト族、32人の「クレオール」(ロシア人と先住民の混血)、1人の白人が居住していた<ref>http://www2.census.gov/prod2/decennial/documents/1880a_v1-17.pdf</ref>。1890年の調査では "Attu" という名に変わるが<ref>http://www2.census.gov/prod2/decennial/documents/1890a_v8-01.pdf</ref>、その後1930年まで調査がない<ref>https://www2.census.gov/prod2/decennial/documents/00476569ch2.pdf</ref>。1940年の国勢調査<ref>https://www2.census.gov/prod2/decennial/documents/33973538v1ch11.pdf</ref>の2年後、村と島は日本軍の侵攻を受けることになり、以後1980年まで統計にあらわれない。
 
1980年の統計ではマサカー・ベイの基地が[[国勢調査指定地域]] (CDP) に指定された<ref>https://www2.census.gov/prod2/decennial/documents/1980a_akABCD-01.pdf</ref>{{enlink|Attu Station, Alaska}}。1990年の統計はなく<ref>https://www.census.gov/prod/cen1990/cph5/cph-5-3.pdf</ref>、2000年の統計で CDP "Attu Naval Station" となった<ref>https://www.census.gov/prod/cen2000/phc-1-3.pdf</ref>。2010年の国勢調査は、基地閉鎖直後、住民が去る直前に行われた<ref>https://www.census.gov/prod/cen2010/cph-1-3.pdf</ref>。
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=== 気候 ===
アッツ島の気候は、アリューシャン列島の気候としては一般的なもので曇りや雨・雪、霧が多く、時折強風も吹く。晴天は1年に8-10日ほどしかない。残りの日は雨が降っていなくても濃さの程度の差はあれ霧が出ているのが通常である。雨などによる年間[[降水]]量は{{convert|39|-|49|in|mm}} で、秋から初冬にかけて最も降水が多い。
[[ケッペンの気候区分]]によると、アッツ島は[[西岸海洋性気候]](''Cfc'')で[[ツンドラ気候]](''ETf'')に限りなく近い。暖流のアリューシャン海流のため緯度の割には気候が和らぐとはいえ高緯度のため気候は非常に寒く冷涼で、日中の最高気温は夏でも50°F台半ば(10℃台前半)にしかならない。一方で、冬の寒い月の平均気温が-3℃、最低気温で-17℃程度で、日本の東北地方の山間部より過しやすいともいわれる
{{Weather box
|location = アッツ島
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}}
 
1982年の時点で、島で木らしい木は、1943年の戦いの後に米軍兵士が島の[[礼拝堂]]に植えた木だけであったという<ref name="nrhpinv2"/>。
 
=== 野生生物 ===
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1998年には、Sandy Komito が29日間(5月10日 - 6月7日)に745種(のちに748種に修正)という斯界の大記録を残した<ref>{{cite book|title=I Came, I Saw, I Counted|last=Komito|first=Sandy|publisher=Bergen Publishing Company|year=1999|isbn=978-0-96705-010-2}}</ref>([[:en:Big year|Big year]])。バードウォッチング・ツアーでアッツ島を訪れることは可能であるが、アクセスは[[アダック島]]からの数日間のボートでの航海に限られる。
 
太平洋戦争中この地に駐屯した日本軍兵士には、8月には日本でいえば高山植物にあたる草花が野に絨毯のように咲き乱れ、まるで別世界にいるような気がしたと語る者もいる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.town.kamifurano.hokkaido.jp/hp/saguru/1804satou.htm |title=奇跡の生還『キスカ島の激戦』(上) |access-date=2023-8-13 |publisher=上富良野町役場}}</ref>。
 
== 入島許可・交通 ==
[[厚生労働省]]のサイトによれば、島には[[アメリカ沿岸警備隊|アメリカ合衆国沿岸警備隊]]の施設があるため、渡航には許可が必要とされる<ref name="korosho"/>。施設の閉鎖(2010年)後も、2015年の[[読売新聞]]記事(日本の戦死者遺族の訪問関連記事)によれば、厳しい上陸規制があるという<ref name="attuyomiu"/>。2018年の米国 ''[[:en:The World (radio program)|The World]]'' 誌の記事(元島民子孫の訪問関連記事)でも、入島許可を得るための手続きが非常に煩瑣だと記されている<ref name="pri-180531">{{cite news|url=https://www.pri.org/stories/2018-05-31/attu-descendants-visit-their-ancestral-home-first-time|title=Attu descendants visit their ancestral home for the first time|publisher=the World|accessdate=2020-8-5}}</ref>。
 
*2013年に行われた日本の戦死者遺族による訪問記録によれば、入島には[[合衆国魚類野生生物局]]の許可が必要であり、民間セスナ機をチャーターして島に入っている<ref>{{cite news|url=http://www.boen.or.jp/appenkix600.htm|title=海外慰霊巡拝(アッツ島慰霊)|publisher=(公財)千鳥ケ淵戦没者墓苑奉仕会|accessdate=2020-8-5}}</ref>。
*2018年に訪問した元島民子孫は魚類野生生物局の調査船 R/V Tiglax に便乗する機会を提供され、初めて島を訪れている<ref name="pri-180531"/>。
 
船や飛行機の定期航路はない。2018年の米国 The World 誌記事は「島を訪れる唯一の方法はボートである」と記す<ref name="pri-180531"/>。2019年の読売新聞記事によれば、島内に存在する飛行場の滑走路は、老朽化が進み大型機の着陸は不可能とされている。重機を運び込むことも難しく補修計画は立てられていない<ref>{{Cite web |和書|date=2019-01-14 |url=https://www.yomiuri.co.jp/national/20190114-OYT1T50064/ |title=アッツ慰霊、孫世代へ…23年ぶり巡拝計画 |publisher=読売新聞 |accessdate=2019-06-02}}</ref>。
 
== 備考 ==
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=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
 
== 関連項目 ==
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* [[アッツザクラ]] - アッツ島原産ではないが、和名の由来とされる[[キンバイザサ科]]の植物
* [[アッツ島玉砕]]
* [[日本での敵国人の抑留]]
 
== 外部リンク ==