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{{日本の歴史|Odanobunaga.jpg|180px|画像説明=織田信長}}
'''安土桃山時代'''(あづちももやまじだい、[[1568年]]-[[1600年]]頃)は、'''織豊時代'''(しょくほうじだい)・'''織豊期'''(しょくほうき)ともいい、[[織田信長]]と[[豊臣秀吉]]が[[日本]]の覇権を掌握した時代。[[織田信長]]の[[安土城]]、[[豊臣秀吉]]の「桃山城」([[伏見城]])にちなんでこのように呼ばれている。とくに[[豊臣氏]]が全国支配を担った後半を[[桃山時代]]という。また、室町時代末期から安土桃山時代の戦乱の世を[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]ともいう。初期は[[室町時代]]末期([[1573年]]まで)と重なる。
[[ファイル:安土城.jpg|thumb|right|200px|[[安土城]]]]
 
[[ファイル:Toyotomi_Hideyoshi_c1598_Kodai-ji_Temple.png|thumb|right|200px|[[豊臣秀吉]]]]
[[ファイル:Fushimi momoyaja jyou 40.jpg|thumb|right|200px|[[伏見城]]([[洛中洛外図屏風]]の中の伏見城の部分)]]
[[ファイル:Jurakudai-Palace-Kyoto-Folding-Screen.jpg|thumb|right|200px|[[聚楽第]]を描いている聚樂第屏風圖(三井文庫蔵)]]
[[File:Hōkōji Daibutsu Kaempfer.png|thumb|200px|[[エンゲルベルト・ケンペル]]の[[方広寺]]大仏([[京の大仏]])のスケッチ<ref>ベアトリス・M・ボダルト=ベイリー『ケンペルと徳川綱吉 ドイツ人医師と将軍との交流』中央公論社、1994年 p.95</ref>。]]
'''安土桃山時代'''(あづちももやまじだい)は、[[日本の歴史]]において、[[織田信長]]と[[豊臣秀吉]]が中央政権を握っていた時代である。2人の名前を取って、'''織豊時代'''(しょくほうじだい)ともいう。
 
== 概要 ==
===由来===
[[1568年]]に[[織田信長]]が[[足利義昭]]を奉じて[[京都]]に入ってから、[[1598年]]に豊臣秀吉が死没するまで、あるいは[[1600年]]の[[関ヶ原の戦い]]で[[徳川家康]]が勝利して天下人としての地位を固めるまでの時代のこと。
[[織田信長]]の居城が[[安土城]]([[滋賀県]][[近江八幡市]]'''[[安土町]]''')で、[[豊臣秀吉]]の居城[[伏見城]]が[[桃山丘陵]]([[京都市]][[伏見区]]'''[[京都市伏見区の町名#旧堀内村|桃山町]]''')にあったことから、このように歴史学者から呼ばれる。特に、[[豊臣氏|豊臣家]]が全国支配を担った後半を'''桃山時代'''といい、この時代を中心に栄えた文化を'''[[桃山文化]]'''と呼ぶ。ただし、桃山の名称は[[江戸時代]]になって廃城された伏見城の跡地に桃の木が植えられ、[[安永 (元号)|安永]]9年『伏見鑑』が発行された頃から「桃山」と呼ばれるようになったことから名付けられたもので<ref>{{Cite web|和書|date=2016-11-19 |url=http://fushimi.keizai.biz/headline/171/ |title=伏見・桃山は江戸時代のタウンページで使われ定着した名称 歴史研究グループが発表 |work=[みんなの経済新聞ネットワーク|伏見経済新聞] |accessdate=2017-12-16}}</ref>、桃山城と呼ばれる城が存在したわけではない。
 
===始期と終期===
安土桃山時代の始期と終期には複数の見解が存在する。
 
始期は、織田信長が[[足利義昭]]を奉じて[[京都]]に上洛した[[永禄]]11年([[1568年]])、義昭が京都から放逐されて[[室町幕府]]が事実上の滅亡に追い込まれた[[元亀]]4年([[1573年]])、安土城の建設が始まった[[天正]]4年([[1576年]])とする考えもある。
 
終期は、豊臣秀吉が死去した[[慶長]]3年([[1598年]])、[[関ヶ原の戦い]]で[[徳川家康]]が勝利した慶長5年([[1600年]])、家康が伏見城で[[征夷大将軍]]に任じられ[[江戸幕府]]を開いた慶長8年([[1603年]])などがある。
 
「織田・豊臣の時代」という概念をどこで区分するかの違いではあるが、[[室町時代]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]と重複することがその定義を難しくしている。
 
===美術史===
美術史では、慶長20年(1615年)の豊臣家滅亡までを安土桃山時代と称するのが一般的で、特に「桃山文化」「桃山美術」などと言う場合、秀吉が覇権を握った天正半ばから文禄を経て慶長の終末に至るまでを時代区分とする。
 
それは政権の在り処に関わらず、秀吉や同時代の有力者が好んだ華やかな空気が、なお日本を支配していたと認識されているためである。
 
当時の文化的中心であった京都および周辺地域では、秀吉を継いだ秀頼によりなおも活発な社寺建設が行われていたし、それに倣って各地でも作事が活発であり、関ヶ原の戦いによる政権交代によって文化的断絶までが生まれたわけではなかった。
 
だが豊臣家が滅亡した[[元和偃武]]以後、世相の安定を背景に、桃山文化は変質していき、一方では洗練の度合いを増し[[桂離宮]]などの瀟洒な[[数寄屋造り|数寄屋]]建築を生みだしたし、他方では[[日光東照宮]]や武家の御殿など豪華さを競う[[バロック]]的傾向を強めていった。
 
==沿革==
=== 織田信長による政権の確立 ===
{{see|織田政権}}
織田信長の勢力が次第に強大になり、足利義昭を奉じて京都に上洛したことで、信長が[[天皇]]や室町幕府の将軍の権威を利用して[[畿内]]および[[東海地方]]を支配した。[[兵農分離]]や主力[[武器]]を[[弓矢]]から[[鉄砲]]に変える軍事改革を実施した。[[楽市・楽座]]、[[関所]]の廃止、[[堺]]など[[自治都市]]の支配や[[撰銭令]]などの[[経済政策]]が実施された。元亀4年(1573年)に信長が足利義昭を京から放逐すると{{Sfn|永原|1987|p=36}}、室町幕府は事実上崩壊し、織田政権が確立する。天正7年([[1579年]])に信長の目前で[[浄土宗]]と[[日蓮宗]]の仏教宗派の正義論を討論させる[[安土宗論]]を実施して敗北した日蓮宗を弾圧するなどの仏教政策があった。天正4年(1576年)に安土城を築城して自由商業都市とした。[[安土城|安土]]を拠点に[[畿内]]を中心に[[東海地方]]・[[北陸地方]]などを支配した。信長の支配により平和を取り戻した京・堺と安土及び長崎を中心に新たな[[南蛮文化]]が花開いた。信長はその後も勢力を拡大し日本中央部を制圧して[[天下統一]]は目前と思われたが、天正10年(1582年)の[[本能寺の変]]で自害した。
 
===豊臣秀吉による天下統一===
[[Image:Hideyoshi battlefield vest.jpg|thumb|right|200px|鳥獣文様陣羽織 伝秀吉着用]]{{see|豊臣政権}}
本能寺の変を知った羽柴秀吉は、いち早く京に駆け付け謀反の首謀者である[[明智光秀]]を破った([[山崎の戦い]])。これにより信長の葬儀を実施するなど織田政権内での主導権を掌握した。[[織田秀信]]や[[織田信雄]]の後見人として織田家臣団の領地を再編成した秀吉は[[清洲会議]]や[[賤ヶ岳の戦い]]を経て信長の後継者として地位を固めた。天正11年([[1583年]])には大坂城の築城を開始する。天正14年([[1586年]])には関白・太政大臣に任ぜられ豊臣姓を賜り{{Sfn|永原|1987|p=48}}、天正18年([[1590年]])に日本国内の統一を達成した。農民一揆を防止するため[[刀狩|刀狩令]]を出した。[[京都]][[方広寺]]の大仏作りを口実とした。全国各地で[[太閤検地]]を行い[[石高]]制度を導入し、度量衝が統一された。[[1594年]]には文禄検地が実施され、[[検地帳]]が作成され、記載された高持[[百姓]]に耕作権を認めた。郷村の境界線を決める村割が実施された。百姓身分の農民を武士身分の役人が支配する[[郷村]]制度が確立した。[[荘園 (日本)|荘園制]]は完全に解体し在地[[土豪]]の支配は否定され、一地一作人の原則が確立した。田畑以外の農民の屋敷など村の規模が石高で測量された。秀吉は[[1592年]](文禄元年)に[[人掃令]]を出して全国的な戸口調査を実施した。[[1591年]](天正19年)に[[身分統制令]]を出して[[兵農分離]]が推進された。城割りを実施して商人の城下町集住を推進して商農分離が進行した。地方の小城を破壊し、[[論功行賞]]の名目で[[転封]]を実施した。また、[[文禄]]元年([[1592年]])には、[[宣教師追放令]]や[[海賊禁止令]]などを発令した。キリスト教を禁教とする[[殉教]]者26人の処刑処分や[[朱印船]]制度を創設した。明への使者が殺害されたのをきっかけに[[文禄・慶長の役]]を起こした。大阪城に朝鮮の王子を人質として迎え、朝鮮半島の無害通行権を得たが、朝鮮王は同時に明へも援軍を要請していた。当初は有利に戦を進めたが、進軍先は領地としては魅力が薄く、厭戦気分が遠征軍に蔓延し、明への進軍は行われなかった。工芸品などの技術者達を見いだし、西国大名達は駐屯地で彼らを厚遇したため、役後、各大名の所領に帰化した者もあった。遠征軍に参加しなかった東国大名は勢力を拡大した。
 
一方、国内は広域商業が発達し、[[堺]]・[[博多]]・[[長崎市|長崎]]など主要商業都市を[[豊臣家]]の直轄地とした。諸大名は領国の経営に力を注ぎ、各地で特産物都市が興隆していった。また、秀吉自身は京を活動の拠点とし茶の湯を始めとする文化活動を自らも積極的に行った。また、[[鉄砲]]が[[西洋]]から伝来し、[[南蛮人]]との交流が開始された。キリスト教の[[カトリック]][[教会]][[文化]]と[[西洋]]世界の[[奴隷]]の存在を[[日本人]]が知った。また、[[カステラ]]など南蛮料理が食べられるようにになり、[[タバコ]]が南蛮人の影響で伝来、[[喫煙]]文化が誕生した。[[文禄・慶長の役]]により明は衰退し、従来の輸入品[[永楽通宝|渡来銭]]([[銅銭]])に代わり、[[天正大判]]など国内独自の[[金貨]]や[[銀貨]]が製造されて広く流通した。[[文禄・慶長の役]]の後、陶法・毛皮加工などが帰化した技術者達により発展し、文化は新たな時代を迎えた(桃山文化)。
 
=== 豊臣時代の終結 ===
{{see|江戸幕府}}
豊臣政権末期に秀吉遺書体制として[[浅野長政]]・[[前田玄以]]・[[石田三成]]・[[増田長盛]]・[[長束正家]]の5人による[[五奉行]]制度(司法担当・宗教担当・行政担当・土木担当・財政担当)を創設した。[[慶長]]3年([[1598年]])、秀吉が死去すると、[[豊臣家]]は石田三成を中心とする[[文治派]]と[[加藤清正]]・[[福島正則]]などの[[武断派]]に分裂して[[五大老]]の筆頭である[[徳川家康]]が[[伏見城]]で実力者としての頭角を現した。朝鮮遠征軍撤退の和平交渉でも主導権を握り実質的な政権運営者へとのし上がっていった。これに対し[[石田三成]]を中心とした反家康勢力が[[慶長]]5年(1600年)に全国を二分する[[関ヶ原の戦い]]が勃発した。これに勝利した徳川家康は政権の基盤を固め、慶長8年([[1603年]])[[征夷大将軍]]に任じられる。これにより安土桃山時代は終わり{{Sfn|永原|1987|p=95}}、[[江戸時代]]が始まった。
 
== 年表 ==
* [[元亀]]4年([[1573年]]) - [[足利義昭]]が京都から追放されて、[[室町幕府]]が事実上滅びる。
* [[天正]]3年([[1575年]]) - [[長篠の戦い]]→武田勝頼が敗走する。
* 天正4年([[1576年]]) - 織田信長、[[安土城]]を築く。
* 天正8年([[1580年]]) - 織田信長、[[顕如]]を降伏させて、[[石山本願寺]]との対決を終わらせる。
* 天正9年(1582年) - [[本能寺の変]]→[[山崎の戦い]]:[[明智光秀]]の謀反も俗に言う三日天下で終わる。
* 天正9年(1582年) - [[清洲会議]]→[[賤ヶ岳の戦い]]:織田信長の後継争いで、織田家重臣であった[[柴田勝家]]と羽柴秀吉が反目。羽柴秀吉が勝ち、敗れた柴田勝家が自害する。
* 天正10年(1583年) - 羽柴秀吉が石山本願寺跡地に[[大坂城]]を築城する。
* 天正11年(1584年) - [[小牧・長久手の戦い]]:羽柴秀吉と[[織田信雄]]、徳川家康との戦い→和睦。
* 天正13年([[1585年]]) - 羽柴秀吉、[[藤原氏]]を称し[[関白]]に就任する。同年[[四国攻め|四国平定]]。
* 天正14年([[1586年]]) - 羽柴秀吉、[[太政大臣]]となり、豊臣姓を賜る。同年京都に[[聚楽第]]を建てて政治的な拠点とする。
* 天正15年([[1587年]]) - [[九州征伐]]。
**九州征伐後、[[博多]]で[[バテレン追放令|伴天連追放令]]を発布する。
* 天正18年([[1590年]]) - [[小田原征伐]]、[[後北条氏|北条氏]]が豊臣秀吉に降伏、[[天下統一]]。[[天正の地割]]
* [[1592年|文禄元年(1592年)]] - 豊臣秀吉の[[文禄・慶長の役|唐入り]] 。
* [[文禄]]元年([[1592年]]) - 豊臣秀吉が[[伏見]]の[[指月 (山城国)|指月]]に隠居のための屋敷構を築く。
* 文禄3年([[1594年]]) - 指月の隠居屋敷を改修し[[伏見城]]の築城が本格化。
* 文禄5年([[1596年]]) - 指月伏見城が完成するが直後の[[慶長伏見地震]]で天主が倒壊。[[桃山丘陵|木幡山]]にて新たな築城に着手。
* [[慶長]]2年([[1597年]]) - 木幡山伏見城が完成する。また、[[京都新城|京都にも新たな邸宅]]の建設を行う。
* 慶長3年([[1598年]]) - 豊臣秀吉が[[伏見城]]で死去する。明征伐が終わり、駐屯軍撤退。
* 慶長5年([[1600年]]) - [[関ヶ原の戦い]]。前哨戦の[[伏見城の戦い]]で伏見城落城。
* 慶長7年([[1602年]]) - [[徳川家康]]が伏見城を再建。
* 慶長8年([[1603年]]) - 徳川家康が伏見城で[[将軍宣下]]を受け[[征夷大将軍]]に就任する。
*慶長19年([[1614年]])- [[大坂の陣#大坂冬の陣|大坂冬の陣]]。
*慶長20年([[1615年]])- [[大坂の陣#大坂夏の陣|大坂夏の陣]]。:豊臣氏の滅亡。[[元和偃武]]。
 
== 桃山文化 ==
{{See also|桃山文化}}
[[織田信長]]時代と[[豊臣秀吉]][[時代]]の[[文化_(代表的なトピック)|文化]]を秀吉の最後の居城だった[[伏見城]]の[[地名]]をとって、桃山文化と呼んでいる。新鮮味あふれる豪華で壮大な派手な文化であり、新興[[大名]]や[[豪商]]が中心だったとされる。<ref>『日本史図録』141頁</ref>新興の[[武士]]勢力や豪商の気風や商人の経済力を反映して、[[仏教]]色の少ない[[現世]]的な[[南蛮文化]]の影響を受けた文化である{{Sfn|永原|1987|p=81}}。都市部において、[[堺]]の[[今井宗久]]や[[博多]]の[[島井宗室]]ら[[豪商]]と呼ばれる新興商人が成長した時代であった{{Sfn|永原|1987|p=68}}。
 
茶の湯が流行し、[[唐物]]の[[名物 (茶道具)|名物]][[茶道具]]が珍重された一方で、それへの反抗としての[[わび茶]]も発達した。茶器が大名から家臣への報奨とされたり、[[茶会]]が武将と[[豪商]]を結ぶなど行事になるなど[[千利休]]の存在が政治にも影響した。
 
特筆すべき点としては、[[天文 (元号)|天文]]18年([[1549年]])の[[フランシスコ・ザビエル]]来日以来の[[南蛮貿易]]によってもたらされた[[南蛮文化]]の影響が挙げられる。まだ小規模ではあったが、日本が初めて[[西洋文化]]と直接(中国などを介さずに、正式な形で)触れ合ったという点で重要である。
 
=== 絵画 ===
[[Image:Kano Eitoku - Cypress Trees.jpg|300px|right|thumb|濃絵の特徴を良く示す『[[檜図屏風]]』狩野永徳]]
[[File:NanbanGroup.JPG|thumbnail|200px|日本に到来した南蛮人たち]]
[[狩野派]]の絵師が織田信長、豊臣秀吉などその時々の権力者と結び付いて画壇の中心を占めた。
 
* 障壁画:城郭、寺院などの襖、壁、床(とこ)や屏風などに描かれた{{Sfn|永原|1987|p=83}}。
* 濃絵:金箔地に青・緑を彩色。豊かな色彩と力強い線描、雄大な構図が特徴。
* [[水墨画]]
* [[風俗画]]
 
'''主な絵師と代表作'''
* 濃絵
** [[狩野永徳]]:[[唐獅子図屏風]]
** [[狩野山楽]]:[[牡丹図]]、[[松鷹図]]
** [[長谷川等伯]]:[[智積院]]襖絵楓図
** [[長谷川久蔵]]:智積院襖絵桜図
* 水墨画
** [[長谷川等伯]]:[[松林図屏風]]
** [[海北友松]]:[[山水図屏風]]
* 風俗画
** 狩野永徳:上杉本[[洛中洛外図屏風]]
** 狩野内膳:豊国大例祭図屏風
** 南蛮屏風
 
=== 工芸 ===
==== 漆器 ====
* [[高台寺]][[蒔絵]]
 
==== 陶器 ====
* [[楽焼]]
* [[織部焼]]
* 朝鮮の影響を受けた陶磁器・皮革武具:[[文禄・慶長の役|唐入り(文禄・慶長の役)]]した主力の大名が進軍先駐屯中に、朝鮮の工芸品を見い出し物資調達で厚遇した。陶工など技能集団は日本への帰化を希望し、各大名が所領内での帰化と居住を許し、一部は重臣に取り立てられ、各大名は工芸品を特産物として保護した。有名なものは、
**[[伊万里焼]]:[[佐賀県]][[有田町|有田]]、[[長崎県]][[波佐見町|波佐見]]、[[三川内]]などで焼かれた肥前磁器の総称。[[鍋島直茂]]が帰化を許可した陶工を発祥とする。
** [[萩焼]]:[[山口県]][[萩市]]周辺で焼かれる。[[毛利輝元]]が帰化を許可した陶工を発祥とする。
** [[薩摩焼]]:[[鹿児島県]]一帯で焼かれる。[[島津義弘]]が帰化を許可した陶工を発祥とする。
** [[上野焼]](あがのやき):[[福岡県]][[田川郡]][[福智町]]で焼かれる。[[細川忠興]]が[[小倉藩]]主となった際に、家臣にまで取り立てられ帰化陶工が発祥とする。
** [[高取焼]]:[[福岡県]][[直方市]]や[[福岡市]]で焼かれる。
 
==== 皮革武具 ====
*印伝、上州印伝:軽くて丈夫でしなやかな特徴を持っている大陸産鹿革は、 秀吉の唐入り後流行し、日本刀の柄、鎧兜などに利用されてトンボ柄が有名である
 
==== 活字印刷 ====
* 朝鮮人技術者の技術を移植した木版による活字印刷と、[[イエズス会]]の[[アレッサンドロ・ヴァリニャーノ]]が伝えた西洋の活字印刷によるものがある。
** [[慶長勅版]]:[[後陽成天皇]]の勅命で印刷
** [[キリシタン版]](天草版):「天草版平家物語」、「天草版伊曽保物語」、「ぎゃ・ど・ぺかとる」、「[[日葡辞書]]」
 
=== 茶道 ===
* [[わび茶]]
** [[千利休]]
* 大名茶
 
=== 芸能 ===
==== 踊り ====
* [[幸若舞]]
* 阿国歌舞伎(歌舞伎踊り):[[出雲阿国]]による。[[歌舞伎]]の発祥。
 
==== 語り物 ====
* [[浄瑠璃]]
* [[隆達節]]
 
=== 建築 ===
==== 城郭 ====
[[Image:Keep of Matsumoto Castle.JPG|thumb|right|200px|松本城]]
{{see also|城#日本}}
戦国時代から安土桃山時代にかけて鉱山技術・建築技術・築城技術・造船技術などが進歩して、軍事色が強い[[山城]]から[[平山城]]へ移行した。城下町の発展の商業化で城主の政治統治や[[商人]]への経済支配を重視する[[平城]]へ移行した。[[織豊系城郭]]と呼ばれ、[[野面積み]][[石垣]]が用いられるようになり、[[天守]]を持つ城郭建築が主流となる。
* [[犬山城]]:現存([[国宝]])
* [[安土城]]:[[本能寺の変]]後に焼失
* [[松本城]]:現存(国宝)
* [[大坂城]]:[[大坂の陣]]で焼失、現在の遺構は江戸時代に造られたもの
* [[丸岡城]]:現存(国の[[重要文化財]])
* [[伏見城]]:江戸時代初期に廃城。[[御香宮神社]]表門が遺構として伝えられている。
* [[聚楽第]]:[[豊臣秀次]]失脚時に破棄。[[大徳寺]][[唐門]]、[[西本願寺]][[飛雲閣]]が遺構として伝えられる。
* [[佐和山城]]
* [[竹田城]]
* [[名護屋城]]
* [[姫路城]]:現存(国宝・[[世界遺産]])
 
'''[[倭城]]''':[[文禄・慶長の役]]で[[朝鮮半島]]に築かれた城
* [[蔚山倭城|蔚山城]]
* [[西生浦倭城|西生浦城]]
* [[順天倭城|順天城]]
 
==== その他 ====
'''茶室'''
* [[妙喜庵]]待庵
 
'''書院・庭園'''
* [[醍醐寺]][[三宝院]]表書院・庭園
 
'''寺社'''
* [[宝厳寺]]唐門・観音堂
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
 
== 参考文献 ==
[[戦国大名]]の中で[[織田信長]]が強大になり、後継者の[[豊臣秀吉]]が[[1590年]]に日本を統一した。秀吉は、全国で[[検地]]と[[刀狩り]]を実施させ、全日本規模での課税台帳の整備により国民経済の実態を把握し、農民・商人(一般庶民)の武装を禁じて非合法武装決起を未然に防ぐ治安対策を徹底した。
* {{Citation |和書|author1=永原慶二|author2=青木和夫|author3=佐々木潤之介|date=1987-05|title=百姓・町人と大名|series=日本の歴史 ジュニア版 第3巻|publisher=読売新聞社|ref = {{SfnRef|永原|1987}}}}
また[[明]]の征服を目論んで[[文禄・慶長の役]]を起こしたが、[[朝鮮]]の抵抗に敗れた。秀吉の死後、権力を巡って有力大名同士の衝突を生じさせる結果となったが、[[1600年]]の[[関ヶ原の戦い]]に勝った[[徳川家康]]が政権を得た。この時代には豪奢絢爛な[[桃山文化]]が栄えた。
 
== 文化関連項目 ==
{{ウィキプロジェクトリンク|日本の戦国時代|Osaka Castle Keep tower of 「A figure of camp screen of the Osaka summer」.jpg}}
;桃山文化
{{Commons|Category:Azuchi-Momoyama_period}}
*絵画-襖・屏風に描く障壁画-濃絵の技法、[[長谷川等伯]]、[[海北友松]]、[[洛中洛外図屏風]]、[[南蛮屏風]]
{{Wiktionary}}
*工芸-朝鮮陶工
* [[日本の歴史]]
*茶道-[[千利休]]
* [[日本史時代区分表]]
*演劇-[[歌舞伎]]-若衆歌舞伎から野郎歌舞伎へ。[[出雲阿国]]の女歌舞伎
* [[安土桃山時代の人物一覧]]
*建築-[[天守閣]]のある[[平城]]、[[聚楽第]]
* [[安土町]]
* [[京都]]・[[伏見区|伏見]]・[[桃山丘陵|桃山]]
* [[桃山文化]]
* [[滋賀県#歴史]]
* [[尾張国#歴史]](愛知県西部の歴史)
* [[上洛]]
* [[脇田修]](「大坂時代」を主張)
 
== 人物外部リンク ==
* {{Kotobank}}
*安土桃山時代の人物一覧(日本史の人物一覧)
* {{Kotobank|安土桃山時代(年表)}}
*豊臣政権の[[五大老]]・[[五奉行]]
==関連項目==
*[[安土桃山文化]]
 
{{日本の歴史一覧|1573年-1603年}}
----
{{豊臣政権}}
[[室町時代]]-'''安土桃山時代'''-[[江戸時代]]
{{Japanese-history-stub}}
[[Category:日本史|*1586]]
{{Normdaten}}
[[category:安土桃山時代|*]]
 
{{DEFAULTSORT:あつちももやましたい}}
[[en:Azuchi-Momoyama_period]]
[[Category:日本の歴史 (時代別)]]
[[ru:Период_Адзути-Момояма]]
[[Category:安土桃山時代|*]]
[[sv:Azuchi]]
[[zh-cnCategory:安土桃山时代]]