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{{出典の明記|date=2011年3月}}
{{Battlebox
|battle_name = 蔚山沖海戦
|campaign = 日露戦争
|colour_scheme = background:#ccffcc;color:#2222cc
|image = [[ファイル:Battle off Ulsan.jpg|300px]]
|caption = 蔚山沖海戦で沈没するロシア巡洋艦リューリク (1904年の戦意高揚のためのポストカードより)
|conflict = [[日露戦争]]
|date = 1904年8月14日
|place = [[日本海]]、[[蔚山広域市|蔚山]]沖
|result = [[大日本帝国|日本]]の勝利
|combatant1 = {{JPN1889}}
|combatant2 = {{RUS1883}}
|commander1 = [[上村彦之丞]]中将
|commander2 = [[カールル・イェッセン]]少将
|strength1 = [[装甲巡洋艦]]4<br />[[防護巡洋艦]]4
|strength2 = 装甲巡洋艦3
|casualties1 = 沈没艦なし
|casualties2 = 装甲巡洋艦1沈没<br />2大破
|}}
'''蔚山沖海戦'''(うるさんおきかいせん{{#tag:ref|[[蔚山]]は慣例的に現地語近い「うるさん」と読む<ref>『大日本分県地図併地名総覧 昭和十二年』昭和礼文社1989年12月</ref><ref>蔚山沖海戦を「うるさん」と読ませる文献の例『一億人の昭和史(毎日新聞社)』や『日本海軍史(財団法人 海軍歴史保存会)』『写真図説 帝国連合艦隊(講談社)』『日本の海軍(池田清)』『鹿児島大百科(南日本新聞社) ※上村彦之丞解説中』ノートより</ref>。ただし、一部の辞書では音読みで「いさん」と読むことを許容しており<ref>小学館 デジタル大辞泉 [http://dictionary.goo.ne.jp/srch/jn/%E8%94%9A%E5%B1%B1/m0u/ 蔚山](ただし解説文は「うるさん」項目。解説文末尾で「いさん」読みを紹介)</ref><ref>三省堂『大辞林』第一版1988年・第二版1995年・第三版2006年(ただし解説文は「うるさん」項目)</ref><ref>三省堂『コンサイス外国地名事典 第3版』1998年(ただし解説文は「うるさん」項目)</ref>、そう読ませる文献もある<ref>戸高一成『海戦からみた日露戦争』角川oneテーマ21新書、2010年、p108。「~韓国蔚山沖で未明の海上に灯火を発見、ついにロシア隊に遭遇した。」 に「いさん」のルビが振ってある。</ref>。つまり本項目は「いさんおきかいせん」とも読みうる|group=#}})は、[[日露戦争]]での[[大日本帝国海軍|日本海軍]]と[[ロシア帝国海軍|ロシア海軍]]との間の[[海戦]]である。
 
'''蔚山沖海戦'''(うるさんおきかいせん{{#tag:ref|[[蔚山]]は慣例的に現地語近い「うるさん」と読む<ref>『大日本分県地図併地名総覧 昭和十二年』昭和礼文社1989年12月</ref><ref>蔚山沖海戦を「うるさん」と読ませる文献の例『一億人の昭和史(毎日新聞社)』や『日本海軍史(財団法人  海軍歴史保存会)』『写真図説  帝国連合艦隊(講談社)』『日本の海軍(池田清)』『鹿児島大百科(南日本新聞社) ※上村彦之丞解説中』ノートより</ref>。ただし、一部の辞書では音読みで「いさん」と読むことを許容しており<ref>小学館 デジタル大辞泉 [http://dictionary.goo.ne.jp/srch/jn/%E8%94%9A%E5%B1%B1/m0u/ 蔚山](ただし解説文は「うるさん」項目。解説文末尾で「いさん」読みを紹介)</ref><ref>三省堂『大辞林』第一版1988年・第二版1995年・第三版2006年(ただし解説文は「うるさん」項目)</ref><ref>三省堂『コンサイス外国地名事典 第3版』1998年(ただし解説文は「うるさん」項目)</ref>、そう読ませる文献もある<ref>戸高一成『海戦からみた日露戦争』角川oneテーマ21新書、2010年、p108。「~韓国蔚山沖で未明の海上に灯火を発見、ついにロシア隊に遭遇した。」 に「いさん」のルビが振ってある。</ref>。<!--つまり本項目は「いさんおきかいせん」とも読みうる。-->なお、中国語では蔚山をYushan<ref>J. Marshall Craig ''[https://books.google.co.jp/books?id=tOHcDwAAQBAJ&pg=PT254 China, Korea & Japan at War, 1592–1598: Eyewitness Accounts]''</ref>(Yùshān)<!--[[:zh:蔚山广域市]]参照-->と読む。「蔚」の日本語音読みには「ウツ」と「イ」がある<ref>日本漢字能力検定協会 漢字ペディア 「[https://dictionary.goo.ne.jp/word/kanji/%E8%94%9A/ 蔚]」</ref>が、中国語のyù(ユイ)に対応する音読みは「うつ」であり「い」ではない<ref>小学館 中日辞典 第3版「[https://kotobank.jp/zhjaword/%E8%94%9A 蔚]」</ref>ため、蔚山を「いさん」と読ませるのは誤り。|group=#}})は、[[日露戦争]]での[[大日本帝国海軍|日本海軍]]と[[ロシア帝国海軍|ロシア海軍]]との間の[[海戦]]である。英語では時に Battle of the Japanese Sea とも呼ばれるため[[日本海海戦]](Battle of Tsushima)と混同しないよう注意が必要である。
== 背景 ==
[[ウラジオストク]]を母港とする[[ロシア帝国]]・[[ウラジオストク巡洋艦隊]]の[[装甲巡洋艦]]「{{仮リンク|ロシア_(装甲巡洋艦)|label=ロシア|en|Russian cruiser Rossia|}}」「[[グロモボーイ_(装甲巡洋艦)|グロモボーイ]]」「[[リューリク_(装甲巡洋艦・初代)|リューリク]]」(以下ウラジオストク艦隊、浦塩艦隊とも)は、[[旅順口区|旅順]]の主力艦隊とは別行動を取り、日露戦争開戦後、活発な[[通商破壊]]戦を繰り返していた。日本軍は主力艦隊の遊撃部隊で[[上村彦之丞]]中将を司令長官とする[[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]]([[装甲巡洋艦]]「[[八雲_(装甲巡洋艦)|八雲]]」「[[浅間_(装甲巡洋艦)|浅間]]」、第4・第5駆逐隊は[[第一艦隊 (日本海軍)|第一艦隊]]に臨時編入)を派遣し、ウラジオストク艦隊を捜索したが、捕捉できなかった。
 
6月15日には[[大日本帝国陸軍|陸軍]]兵士を輸送中の「常陸丸」「和泉丸」が撃沈され「佐渡丸」が大破、須知源二郎中佐以下の近衛後備歩兵第1連隊等の兵員千名余りが戦死した([[常陸丸事件]])。さらに7月にはウラジオストク艦隊は[[東京湾]]の沖に出現した。
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この通商破壊戦は日本の[[帝国議会]]でも問題になり、上村が濃霧のためウラジオストク艦隊を見失ったと東京の[[大本営]]に打電したところ、ある議員は「濃霧、濃霧、逆さに読めば無能なり」と野次った。民衆は怒り狂って上村の自宅へ投石し、上村を露探(ろたん=ロシアの[[スパイ]])呼ばわりした。
 
8月10日、旅順艦隊がウラジオストクへの脱出を目的として出撃した。旅順は通信手段を絶たれていたため、その情報は旅順から単独で[[煙台市|芝罘]]に向かった駆逐艦レシーチェリヌイにより伝えられ、11日夕刻にその情報が届いたウラジオストクでは[[カールル・イェッセン|イェッセン]]少将が出撃を命じられた<ref name{{sfn|日露海戦新史|p="toyama 195">}}{{sfn|日露海戦新史|p=195}}。すでに旅順艦隊は[[黄海海戦 (日露戦争)|黄海海戦]]で敗北し多くは旅順に引き返し、残りも「[[鈴谷_(通報艦)|ノヴィク]]」を除いてウラ</ref>オストク行きを断念していたがその情報は届きようが無かった。イェッセンは翌日「ロシア」「グロモボーイ」「リューリク」を率いて出撃し朝鮮海峡へと向かったが、すでに旅順艦隊は[[黄海海戦 ({{sfn|日露争)新史|黄海海戦]]で敗北していた<ref namep="toyama 195"/>}}。出撃の1時間30分後に、旅順艦隊の脱出は失敗しそのため出撃の必要はないとの報がもたらされ水雷艇がイェッセンの艦隊を追ったが追いつけなかった<ref name="manabe 212">{{sfn|真鍋.日露旅順海戦史|p=212ページ</ref>}}。ウラジオストク艦隊は夜間は単縦陣、昼間は北上してくる旅順艦隊を発見しやすいように3から5海里ほど間隔を空けた単横陣で航行していた<ref>{{sfn|真鍋.日露旅順海戦史|p=212-213ページ</ref>}}。イェッセンは旅順艦隊と会合できなくても釜山の位置より南へは行かないよう命じられていた<ref name{{sfn|真鍋.日露旅順海戦史|p="manabe 212"/>}}
 
一方日本側では黄海海戦後、南方へ逃走した巡洋艦群を追わせるため連合艦隊司令長官の[[東郷平八郎]]が上村に出動を命じた。上村は主力の第二戦隊のみを率い[[済州島]]付近まで到達したが、合流した第六戦隊からの情報で対馬へ引き返し、[[膠州湾]]に入りそれから行方がわからなくなったロシア巡洋艦「ノヴィーク」が対馬海峡を通過する可能性やそれに応じてウラジオストク艦隊が南下することに備えた。引き返す途上で戦隊が西に、13日夜は4隻バラバラとなって東水道を警戒するように通達し自身の戦隊が東は西水道を警戒していへ向かわせた<ref>日露明治三十七八年海戦、197ページ</ref>。
 
== 海戦経過 ==
[[ファイル:Battle in Korean strait.jpg|thumb|ロシア側の図]]
8月14日午前4時25分、蔚山南方を南下中であった上村率いる装甲巡洋艦「[[出雲_(装甲巡洋艦)|出雲]]」「[[吾妻_(装甲巡洋艦)|吾妻]]」「[[常磐_(装甲巡洋艦)|常磐]]」「[[磐手_(装甲巡洋艦)|磐手]]」からなる第二戦隊は左舷前方に灯火を発見し、4時50分にそれがウラジオストク艦隊であると確認した<ref>{{sfn|日露海戦新史|p=198ページ、}}{{sfn|真鍋.日露旅順海戦史|p=213ページ</ref>}}。一方、ウラジオストク艦隊の方も4時30分に北方に日本艦隊を発見している<ref name="manabe 213">{{sfn|真鍋.日露旅順海戦史|p=213ページ</ref>}}。ウラジオストク艦隊は南に向けて逃走を図ったが、敵発見の報を受けて南から北上してくる「浪速」を発見し、一戦を交えるのもやむなしと北北西に転針<ref name{{sfn|真鍋.日露旅順海戦史|p="manabe 213"/>}}。それを受けて第二戦隊も東南東に変針した<ref name="toyama 198">{{sfn|日露海戦新史|p=198ページ</}}{{#tag:ref>。この追撃戦のさなか|[[佐藤鉄太郎]]が後年座談会で語った事によると、[[出雲」の後続 (装甲巡洋「磐手」)|出雲]]ていたあるカメラマンがウラジオストク艦隊を撮影しようと、追撃のさなか水平線上の敵艦三隻を写真収め巡洋艦を撮っ事に成功しところ、後現像してみたら、なん増速した出雲に引き離さは日本のた3隻([[吾妻 (装甲巡洋艦「出雲」)|吾妻]]、[[常磐 (装甲巡洋艦)|常磐]]、[[磐手 (装甲巡洋艦)|磐手]])を敵艦と誤認したものであり、同僚に笑われたという逸話も残っている{{要出典|date<ref name=2011年7月"tokyo">参戦二十提督 日露大海戦を語る</ref>}}。
 
両艦隊の距離は縮まり5時23分に距離8400メートルで砲戦が開始された<ref name{{sfn|日露海戦新史|p="toyama 198"/>}}。砲戦では双方に損害が生じたが、5時36分にウラジオストク艦隊が右に変針すると最後尾のリューリクは集中砲火を受けて遅れ艦長[[エフゲニー・トルーソフ]]大佐が戦死した<ref name="manabe 214">{{sfn|真鍋.日露旅順海戦史|p=214ページ</ref>}}。6時、グロモボーイとロシアは16点回頭を行い、リューリクとともに北西に向かった<ref>{{sfn|日露海戦新史|p=199ページ、}}{{sfn|真鍋.日露旅順海戦史|p=214ページ</ref>}}。そのため第二戦隊も北西微西に変針し戦闘を続行した<ref name{{sfn|真鍋.日露旅順海戦史|p="manabe 214"/>}}。6時30分、リューリクは舵機損傷により戦列を外れた<ref name{{sfn|真鍋.日露旅順海戦史|p="manabe 214"/>}}。以後、グロモボーイとロシアはリューリクを援護しようとし日本第二戦隊との交戦を続けたが、ロシアの損害も大きくなりリューリクも損害がひどく救えない状態になったため7時54分(45分)ごろにグロモボーイとロシアは北へ逃走した<ref>{{sfn|日露海戦新史|p=199-200ページ、}}{{sfn|真鍋.日露旅順海戦史|p=214-216ページ</ref>}}。8時8分ごろグロモボーイとロシアは再度第二戦隊に向かい、このときの戦闘でリューリクの放った砲弾が磐手に命中し磐手で死傷者75名を出すということもあったが、イェッセンはリューリク救援を断念して8時22分には再び北へ向かった<ref>{{sfn|日露海戦新史|p=201ページ、}}{{sfn|真鍋.日露旅順海戦史|p=216ページ</ref>}}。このときには第四戦隊の浪速と高千穂が接近して来ていたが、イェッセン少将は第二戦隊を残りの2艦に引きつければ損傷した「リューリク」も防護巡洋艦2隻を破って帰還できるのではないかと期待していた<ref>{{sfn|真鍋.日露旅順海戦史|p=216ページ</ref>}}
 
上村は第四戦隊にリューリクを任してグロモボーイとロシアを追撃したが、出雲の弾薬が欠乏したとの報告を受けたため10時4分に追撃をやめた<ref>{{sfn|日露海戦新史|p=201ページ</ref>}}。この際、あまりの騒音と喧騒にて、隣の人間とも話もできなかったため、上村に弾薬欠乏を伝えようとした[[参謀]]が[[黒板]]でもって「ワレ残弾ナシ」と書いて伝えると、それを見た上村は悔しさからか、黒板を参謀から奪い取って床に投げつけ、それを何度も踏みつけたという<ref>宝島社刊『別冊宝島  激闘!日露戦争』2003年12月  P53記述より</ref>。ただし、出雲の弾薬は弾庫では少なくなっていても大部分は弾薬通路にあったともいう<ref name="manabe 218">{{sfn|真鍋.日露旅順海戦史|p=218ページ</ref>}}。第二戦隊の追撃中止により、グロモボーイとロシアは二日後にウラジオストクに帰還している<ref name{{sfn|真鍋.日露旅順海戦史|p="manabe 218"/>}}。両艦の人的被害はイェッセンの報告によれば戦死140、負傷319であり、一方第二戦隊の方は戦死45、負傷55であった<ref>{{sfn|真鍋.日露旅順海戦史|p=217-218ページ</ref>}}
 
瓜生少将率いる浪速と高千穂はリューリクに対し8時42分に砲撃を開始した<ref>{{sfn|真鍋.日露旅順海戦史|p=219ページ</ref>}}。リューリクは[[魚雷]]を発射したり[[衝角]]攻撃を試みるなど抵抗を続けたが10時ごろには沈黙、指揮をとっていた{{仮リンク|コンスタンチン・イワノフ=トゥリナーッツァッチ|ru|Константин Петрович Иванов-Тринадцатый|}}大尉は自沈を命じリューリクは沈没した<ref>{{sfn|真鍋.日露旅順海戦史|p=220ページ</ref>}}。リューリクの沈没後日本側は救助作業を行い626名を救助した<ref>{{sfn|真鍋.日露旅順海戦史|p=221ページ</ref>}}
 
== 影響戦後 ==
[[ファイル:Rossiya&AiyaMaru1905baloon.jpg|thumb|250px|1905年[[4月26日]]に撮影された装甲巡洋艦「ロシア」と日本の[[スクーナー「Aiya Maru」]]]]
ウラジオストクに逃げ込むことができた装甲巡洋艦2隻は、船体自体に大きな損害はなかったもののが、上甲板上にあけられた日本軍の砲弾の破孔の修理は物資や労働力の不足により遅々として進まなかった。年も明けた1905年に修理を終えた2隻は1905年[[4月25日]]に日本列島近海へ軍事任務を帯びて出航した。しかし、「グロモボーイ」は[[5月11日]]に触雷し再びドック入りすることとなった。結局これ以降2隻の活動は不活発となり大局に影響を与えず、これによって日本軍は日本海の制海権確保することに成功していると見なすことができる
 
またウラジオストク艦隊に所属し太平洋にて別行動を取っていた補助巡洋艦「レナ」は黄海海戦、蔚山沖海戦などの報を受け太平洋を渡り[[サンフランシスコ]]にまで逃走、抑留された。
 
先の黄海海戦と蔚山沖海戦の戦死者葬儀は1904年8月28日に佐世保と東京で執り行われた<ref>{{Cite journal|和書|title=日露戦争時の海軍軍楽隊 : 海軍軍楽長・吉本光蔵の明治37・38年日記から |author=塚原康子 |url=http://id.nii.ac.jp/1144/00000565/ |date=2014 |journal=東京藝術大学音楽学部紀要 |publisher=東京藝術大学音楽学部 |volume=40 |pages=71-89 |naid=120005625166 |ISSN=0914-8787 |access-date=2023-01-30}}</ref>。
上村は「船乗り将軍」とあだ名された程の猛将であったが、大破し沈みながらもなお砲撃を止めないロシア巡洋艦「リューリク」を見て「敵ながら天晴れである」と褒め称え、退艦した乗組員の救助と保護を命じた。このエピソードは海軍軍人の手本として全世界に伝わり、現在でもフェアプレー精神の例として[[日清戦争]]の[[伊東祐亨]]提督とともに、各国海軍の教本に掲載されているという。
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{reflistReflist|group="#"|1}}
=== 参照 ===
{{reflistReflist|230em}}
 
==参考文献==
* [[東京日日新聞社]], [[大阪毎日新聞社]] 『参戦二十提督 日露大海戦を語る』1935年
*真鍋重忠、『日露旅順海戦史』、吉川弘文館、1985年、ISBN 4-642-07251-9
* {{Cite book|和書|author=真鍋重忠 |title=日露旅順海戦史 |publisher=吉川弘文館 |year=1985 |id={{全国書誌番号|86017820}} |doi=10.11501/12229505 |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/12229505/1/1
*外山三郎、『日露海戦新史』、東京出版、1987年、ISBN 4-924644-29-3
|ref={{harvid|真鍋.日露旅順海戦史}}}}
* {{Cite book|和書|author=外山三郎 |title=日露海戦新史 |publisher=東京出版 |year=1987 |NCID=BN02653496 |ISBN=4924644293 |id={{全国書誌番号|88030491}} |ref={{harvid|日露海戦新史}}}}
 
 
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[[Category:日露戦争の]]
[[Category:日本]]
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