削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
 
(同じ利用者による、間の1版が非表示)
19行目:
}}
 
'''蔚山沖海戦'''(うるさんおきかいせん{{#tag:ref|[[蔚山]]は慣例的に現地語近い「うるさん」と読む<ref>『大日本分県地図併地名総覧 昭和十二年』昭和礼文社1989年12月</ref><ref>蔚山沖海戦を「うるさん」と読ませる文献の例『一億人の昭和史(毎日新聞社)』や『日本海軍史(財団法人 海軍歴史保存会)』『写真図説 帝国連合艦隊(講談社)』『日本の海軍(池田清)』『鹿児島大百科(南日本新聞社) ※上村彦之丞解説中』ノートより</ref>。ただし、一部の辞書では音読みで「いさん」と読むことを許容しており<ref>小学館 デジタル大辞泉 [http://dictionary.goo.ne.jp/srch/jn/%E8%94%9A%E5%B1%B1/m0u/ 蔚山](ただし解説文は「うるさん」項目。解説文末尾で「いさん」読みを紹介)</ref><ref>三省堂『大辞林』第一版1988年・第二版1995年・第三版2006年(ただし解説文は「うるさん」項目)</ref><ref>三省堂『コンサイス外国地名事典 第3版』1998年(ただし解説文は「うるさん」項目)</ref>、そう読ませる文献もある<ref>戸高一成『海戦からみた日露戦争』角川oneテーマ21新書、2010年、p108。「~韓国蔚山沖で未明の海上に灯火を発見、ついにロシア隊に遭遇した。」 に「いさん」のルビが振ってある。</ref>。<!--つまり本項目は「いさんおきかいせん」とも読みうる。-->なお、中国語では蔚山をYushan<ref>J. Marshall Craig ''[https://books.google.co.jp/books?id=tOHcDwAAQBAJ&pg=PT254 China, Korea & Japan at War, 1592–1598: Eyewitness Accounts]''</ref>(Yùshān)<!--[[:zh:蔚山广域市]]参照-->と読む。「蔚」の日本語音読みには「ウツ」と「イ」がある<ref>日本漢字能力検定協会 漢字ペディア 「[https://dictionary.goo.ne.jp/word/kanji/%E8%94%9A/ 蔚]」</ref>が、中国語のyù(ユイ)に対応する音読みは「うつ」であり「い」ではない<ref>小学館 中日辞典 第3版「[https://kotobank.jp/zhjaword/%E8%94%9A 蔚]」</ref>ため、蔚山を「いさん」と読ませるのは誤り。|group=#}})は、[[日露戦争]]での[[大日本帝国海軍|日本海軍]]と[[ロシア帝国海軍|ロシア海軍]]との間の[[海戦]]である。英語では時に Battle of the Japanese Sea とも呼ばれるため[[日本海海戦]](Battle of Tsushima)と混同しないよう注意が必要である。
== 背景 ==
[[ウラジオストク]]を母港とする[[ロシア帝国]]・[[ウラジオストク巡洋艦隊]]の[[装甲巡洋艦]]「{{仮リンク|ロシア_(装甲巡洋艦)|label=ロシア|en|Russian cruiser Rossia}}」「[[グロモボーイ_(装甲巡洋艦)|グロモボーイ]]」「[[リューリク_(装甲巡洋艦・初代)|リューリク]]」(以下ウラジオストク艦隊、浦塩艦隊とも)は、[[旅順口区|旅順]]の主力艦隊とは別行動を取り、日露戦争開戦後、活発な[[通商破壊]]戦を繰り返していた。日本軍は主力艦隊の遊撃部隊で[[上村彦之丞]]中将を司令長官とする[[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]]([[装甲巡洋艦]]「[[八雲_(装甲巡洋艦)|八雲]]」、「[[浅間_(装甲巡洋艦)|浅間]]」、第4・第5駆逐隊は[[第一艦隊 (日本海軍)|第一艦隊]]に臨時編入)を派遣し、ウラジオストク艦隊を捜索したが、捕捉できなかった。
27行目:
この通商破壊戦は日本の[[帝国議会]]でも問題になり、上村が濃霧のためウラジオストク艦隊を見失ったと東京の[[大本営]]に打電したところ、ある議員は「濃霧、濃霧、逆さに読めば無能なり」と野次った。民衆は怒り狂って上村の自宅へ投石し、上村を露探(ろたん=ロシアの[[スパイ]])呼ばわりした。
 
8月10日、旅順艦隊がウラジオストクへの脱出を目的として出撃した。旅順は通信手段を絶たれていたため、その情報は単独で[[煙台市|芝罘]]に向かった駆逐艦レシーチェリヌイにより伝えられ、11日夕刻にその情報が届いたウラジオストクでは[[カールル・イェッセン|イェッセン]]少将が出撃を命じられた{{sfn|日露海戦新史|p=195}}{{sfn|日露海戦新史|p=195}}。すでに旅順艦隊は[[黄海海戦 (日露戦争)|黄海海戦]]で敗北し多くは旅順に引き返し、残りも「[[鈴谷_(通報艦)|ノヴィーク]]」を除いてウラジオストク行きを断念していたがその情報は届きようが無かった。イェッセンは翌日「ロシア」「グロモボーイ」「リューリク」を率いて出撃し朝鮮海峡へと向かった{{sfn|日露海戦新史|p=195}}。出撃の1時間30分後に、旅順艦隊の脱出は失敗しそのため出撃の必要はないとの報がもたらされ水雷艇がイェッセンの艦隊を追ったが追いつけなかった{{sfn|真鍋.日露旅順海戦史|p=212}}。ウラジオストク艦隊は夜間は単縦陣、昼間は北上してくる旅順艦隊を発見しやすいように3から5海里ほど間隔を空けた単横陣で航行していた{{sfn|真鍋.日露旅順海戦史|p=212-213}}。イェッセンは旅順艦隊と会合できなくても釜山の位置より南へは行かないよう命じられていた{{sfn|真鍋.日露旅順海戦史|p=212}}。
 
一方日本側では黄海海戦後、南方へ逃走した巡洋艦群を追わせるため連合艦隊司令長官の[[東郷平八郎]]が上村に出動を命じた。上村は主力の第二戦隊のみを率い[[済州島]]付近まで到達したが、合流した第六戦隊からの情報で対馬へ引き返し、[[膠州湾]]に入りそれから行方がわからなくなったロシア巡洋艦「ノヴィーク」が対馬海峡を通過する可能性やウラジオストク艦隊に備えた。引き返す途上で第四戦隊に、13日夜は4隻バラバラとなって東水道を警戒するように通達し、自身の第二戦隊は西水道へ向かわせた<ref>明治三十七八年海戦史</ref>。