「西念寺 (福岡県広川町)」の版間の差分

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{{日本の寺院
'''西念寺'''(さいねんじ)は、[[福岡県]][[八女郡]][[広川町 (福岡県)|広川町]]にある[[浄土真宗]][[大谷派]]の寺院。[[蒲池氏]]分流の[[菩提寺]]。
|名称 = {{ruby|西念寺|さいねんじ}}
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|所在地 = 福岡県八女郡広川町新代873
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|宗旨 = [[浄土真宗]]
|宗派 = [[真宗大谷派]]
|寺格 =
|本尊 = [[阿弥陀如来]]
|創建年 = [[元和 (日本)|元和]]元年([[1615年]])
|開基 = 全融
|中興年 =
|中興 =
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|札所等 =
|文化財 =
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'''西念寺'''(さいねんじ)は、[[福岡県]][[八女郡]][[広川町 (福岡県)|広川町]]にある[[浄土真宗]][[大谷派]]の寺院。[[蒲池氏]]分流の[[菩提寺]]。
西念寺縁起によると、開基は蒲池氏分流(上蒲池)の2代目の[[蒲池鑑広]]の三男の[[全融]](俗名は蒲池鎮種。鎮胤とも)。
柳川の[[蒲池氏]]嫡流が[[龍造寺氏]]によって滅ぼされ、菩提寺の[[崇久寺]]をはじめ蒲池氏関連の社寺が[[龍造寺隆信]]の命令で徹底的に破壊され尽くしたため、残った蒲池氏庶流の3代目であり、兄でもある[[蒲池鎮運]]と蒲池氏の菩提寺を建立しようとした。
しかし、[[関ヶ原の合戦]]にて鎮運は、[[石田三成]]の西軍側にあって敗れたため宿願は果たせないままになった。元和元年(1615年)、溝口館を守っていた家臣の横溝一族の助力を得て、翌年、梵刹は落成。全融を開基とし、蒲池一族の菩提寺となる。
柳川の蒲池氏本家が[[龍造寺隆信]]により滅ぼされ、菩提寺の崇久寺も徹底的に破壊されたため、西念寺が、蒲池氏分流の菩提寺であると共に蒲池一族の菩提を弔う。
また蒲池氏の家臣である大木、中村、矢加部、山下、横溝、坂田、牛島、木室、吉岡、一条、樺島、末吉、隈、杉、近藤、窪田、丸山、光岡、佐藤、都留、熊添などが当寺を菩提寺とした。
全融の一子である祐善が二世住職となる。現在も住職は、その子孫であり、寺には「蒲池家系図」や「下野宇都宮正統系図」が伝わっている。
 
==関連項目 沿革 ==
西念寺縁起によると、開基は蒲池氏分流(上蒲池)の2代目の[[蒲池鑑広]]の三男の[[全融]](俗名は蒲池鎮種。鎮胤とも)。柳川の[[蒲池氏]]嫡流が[[龍造寺氏]]によって滅ぼされ、菩提寺の[[崇久寺]]をはじめ蒲池氏関連の社寺が[[龍造寺隆信]]の命令で徹底的に破壊され尽くしたため、残った蒲池氏庶流の3代目であり、兄でもある[[蒲池鎮運]]と蒲池氏の菩提寺を建立しようとした。しかし、[[関ヶ原の戦い]]にて鎮運は、[[石田三成]]の西軍側にあって敗れたため宿願は果たせないままになった。[[元和 (日本)|元和]]元年([[1615年]])、溝口館を守っていた家臣の横溝一族の助力を得て、翌年、梵刹は落成。全融を開基とし、蒲池一族の菩提寺となる。
 
柳川の蒲池氏本家が[[龍造寺隆信]]により滅ぼされ、菩提寺の崇久寺も徹底的に破壊されたため、西念寺が、蒲池氏分流の菩提寺であると共に蒲池一族の菩提を弔う。また蒲池氏の家臣である大木、中村、矢加部、山下、横溝、坂田、牛島、木室、吉岡、一条、樺島、末吉、隈、杉、近藤、窪田、丸山、光岡、佐藤、都留、熊添などが当寺を菩提寺とした。全融の一子である祐善が二世住職となる。現在も住職は、その子孫であり、寺には「蒲池家系図」や「下野宇都宮正統系図」が伝わっている。
 
== 関連項目 ==
*[[蒲池氏]]
*[[蒲池親広]]
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*[[崇久寺]]
 
[[Category{{DEFAULTSORT:福岡県の寺|さいねんし]]}}
[[Category:浄土系仏教|さいねんし真宗大谷派の寺院]]
[[Category:蒲池氏|*福岡県の寺]]
[[Category:蒲池氏|寺]]
[[Category:福岡県広川町の建築物]]
[[Category:福岡県広川町の歴史]]