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{{Otheruses|民族としての契丹|契丹民族が建国した国家・契丹|遼|ヨーロッパ、イスラーム世界で中国を指して使われる呼称|キタイ (地理的呼称)|キプチャク部のキタイ|キタイ (キプチャク部)}}
[[画像:MongolHuntersSong.jpg|thumb|400px|[[宋 (王朝)|宋]]代に描かれた契丹人の絵]]
'''契丹'''(きったん、キタン、キタイ、{{ピン音|Qìdān}}、英:Khitan)は、4世紀から現在の[[モンゴル国|モンゴル]]、[[中国東北部]]、[[極東ロシア]]に相当する地域に4世紀頃から居住していた[[北東アジア]]の遊牧民の歴史上の民族である。[[遊牧民]]であったとされている。
 
契丹人は、原モンゴル人から[[鮮卑]]人を経た子孫であり<ref>{{Cite web |title=China's Liao Dynasty |url=https://asiasociety.org/education/chinas-liao-dynasty |website=[[Asia Society]]|access-date=2023-02-04}}</ref><ref>Xu Elina-Qian (2005). ''[https://helda.helsinki.fi/handle/10138/19205 Historical Development of the Pre-Dynastic Khitan]''. University of Helsinki. p.&nbsp;99. quote: "According to Gai Zhiyong's study, Jishou is identical with Qishou, the earliest ancestor of the Khitan; and Shihuai is identical to Tanshihuai, the Xianbei supreme chief in the period of the Eastern Han (25-220). Therefore, from the sentence "His ancestor was Jish[ou] who was derived from Shihuai" in the above inscription, it can be simply seen that the Khitan originated from the Xianbei. Since the excavated inscription on memorial tablet can be regarded as a firsthand historical source, this piece of information is quite reliable."</ref>、[[モンゴル語族]]の汎モンゴル語であり現在は消滅している[[契丹語]]を話した<ref>Janhunen, Juha (2006). "Para-Mongolic". In Janhunen, Juha (ed.). ''The Mongolic Languages''. Routledge. p.&nbsp;393 of pp.&nbsp;391–402.</ref>。契丹人は、シベリア、モンゴル、[[中華人民共和国|中国]]北部の広大な地域を支配した[[遼]]王朝(916〜1125)を建国し、その指導者となった。遼朝の契丹族は、彼らの言語に2つの独立した文字体系を使用していた。遼朝の契丹族は、契丹小字と契丹大字の2種類の独立した文字を使っていた。
 
1125年、[[金 (王朝)|金]]の侵攻により遼王朝が滅亡すると、多くの契丹が[[耶律大石]]の一派に従って西へ向かい、中央アジアにカラ・キタイ([[西遼]]王朝)を建国した。このほか、中国の[[北遼]]、[[東遼]]、[[後遼]]、ペルシャのクトゥルグ=ハニード朝なども契丹が建国した政権である。現在、中国東北部の少数民族として認められている[[ダウール族]]は、契丹人の遺伝的子孫である<ref name="Li">{{Cite news |title=DNA Match Solves Ancient Mystery |last=Li Jinhui |newspaper=china.org.cn |date=2 August 2001 |url=http://china.org.cn/english/2001/Aug/16896.htm}}</ref>。
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『[[遼史]]』に記される伝承によれば<ref group="注釈">契丹の動静が描かれた現存する最古の文献として『[[魏書]]』があるが、さらに早く書かれた記録を[[遼寧省]]義県城の西北にある万仏堂岩窟中の、[[北魏]]「景明三年五月九日造」の銘のある刻文に見ることができる。記録の内容そのものは『魏書』が古い年代に遡る。</ref>、土河([[ラオハムレン川|老哈河]])の東にある馬孟山(馬鞍山)から[[ウマ|白馬]]に乗った神人が、潢河([[シラムレン川|西拉木倫河]])西岸の平地松林から青い[[ウシ|牛]]の牛車に乗った天女と、両河の合流地点にある木吐山で出会い結婚して8人の子を儲け、契丹古八部の祖先になったとされ、中国の歴史教科書にも紹介されている。また、永州木吐山に始祖・奇首可汗<ref group="注釈">遼太祖の弟、[[耶律羽之]]の墓には、奇首可汗の子である[[檀石槐]]以来、代々君長である「其先宗分佶首,派出石槐,歴代漢魏隋唐以来,世為君長」の一文がある。</ref>の祖廟があり、可敦(皇后)と先の八子の像が在るとする。
 
契丹の起源は[[拓跋部]]ではない[[宇文部]]から古くに分かれた東部[[鮮卑]]の後裔で、[[庫莫奚]]もしくは[[室韋]]と同系になると考えられている{{Efn|契丹が宇文部の別種であることにつき、{{Citation|和書|last=古松|first=崇志|author=古松崇志|author-link=古松崇志|title=草原の制覇――大モンゴルまで(シリーズ中国の歴史3)|series=岩波新書|year=2020|publisher=岩波書店|isbn=978-4-00-431806-4|ref=harv|pages=64-65}}参照。}}。『[[新唐書]]』では、かつて[[匈奴]]に破られて逃れてきた[[東胡]]の子孫とする。『[[魏書]]』、『[[北史]]』、『[[隋書]]』によると、[[宇文部]]であった[[奚]](庫莫奚)ともつながりがあり、ともに[[4世紀]]半ばに[[前燕]]の[[慕容皝]]に敗北し、松漠の間(今の赤峰地区)に逃れて居住し、388年に[[北魏]]に敗れ、奚と分離し、その東方に暮らすようになったとされる。
[[ファイル:Map of The east barbarian 3.png|thumb|250px|[[5世紀]]頃の[[東夷]]諸国と契丹の位置。]]
[[ファイル:Map of The east barbarian 4.png|thumb|250px|[[6世紀]]頃の東夷諸国と契丹の位置。]]
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===大賀氏の時代===
[[6世紀]]末〜[[8世紀]]には、西は老哈河から東は[[遼河]]・南は[[朝陽市|朝陽]]までの地域に住み、[[北斉]]に従属していた9つの州に居住する大賀氏八部([[契丹#構成部族|構成部族]])<ref group="注釈">(達稽部-峭落州紇使部-弾汗州独活部-無逢州芬問部-羽陵州突便部-日連州、芮奚部-徒河州、墜斤部-万丹州伏部-匹黎・赤山の両州)</ref>が連盟を結び、紇使部から出た大賀氏を君長に戴いていた。戦争を行う時は、八部が合議して行い、独断で行うことはできない合議体制であった。狩猟は部別に行われたが、戦争は合同で行ったと伝えられる。
[[ファイル:Map of The east barbarian 4.5.png|thumb|250px|[[7世紀]]後半の東夷諸国と唐の[[羈縻政策|羈縻(きび)支配]]。]]
当初は、突厥に臣事し、八部の族長は俟斤(イルキン)の官に任じられる。[[584年]]から[[585年]]にかけて、[[隋]]に来降する。[[586年]]、部族同士の争いが行われ、隋の文帝([[楊堅]])は使者を使わしてこれを責める。そのため、契丹は隋に罪を謝した。この後、[[高句麗]]に従属していた曲拠部-玄州、[[突厥]]に従属していた内稽部-威州の合わせて10部族が隋へ帰順する。隋は突厥との友好のため、彼らを故地に帰そうとしたが、これを拒否し、北に移って遊牧する。突厥は沙鉢略可汗の時に人を遣わして統治したが、契丹はこれを殺して逃れ、[[611年]]に改めて隋に朝貢する。[[618年]]、隋末唐初の戦乱の際に、中国を侵略し、[[619年]]には平州を攻める。[[621年]]、契丹別部の酋帥である孫敖曹が[[唐]]に使いを遣わし、附く。[[623年]]、唐の[[李淵]]に使者を送り、貢納を行う。628年には、君長の摩会が部族を率いて、唐に来降する。突厥の[[頡利可汗]]は引き渡しを求めたが、唐の[[李世民]]はこれを拒絶した。645年、唐の高句麗攻撃に参加し、その帰路に、君長である大賀氏の窟哥が左武衛将軍に任じられる。648年には、唐に内属し、松漠都督および使持節10州諸軍事に任じられ、国姓の李氏をもらう。この頃には、突厥から来降した松漠部-昌州・沃州の両州と紇使部から別れた乙失革部-帯州を加え12部となり、勝兵4万余を擁して[[羈縻政策]]の管理下へ置かれた。
 
窟哥の死後、松漠[[都督]]の阿卜固が奚と結んで反乱を起こすが、[[660年]]、唐の行軍総管である阿史徳枢賓に敗れて鎮圧された。窟哥の孫である李尽忠が松漠都督となる。
 
[[696年]]5月、[[武則天]]の統治下のもと、営州都督・趙文翽の横暴略奪に不満が高じて[[:zh:李尽忠|李尽忠]]と孫敖曹の孫・孫万栄が趙文翽を殺害し、営州を奪うと、10日の内に数万の兵が蜂起、再度反乱を起こした。契丹軍は兵を率いて[[河北]]一帯を寇掠し、8月28日には西硤石谷・黄獐谷で唐軍を大破するが、その後平州の攻略に失敗、10月22日に李尽忠は病死した。[[697年]]3月、孫万栄は再び唐軍と東硤石谷で交戦し壊滅させる。5月に入り、唐は20万の兵を組織。6月下旬に契丹軍は趙州を攻略するが、数日後に唐軍が奚を率いて、孫万栄の新築した城を落城させると、将兵の心が離れ契丹軍は潰散、6月30日に孫万栄は部下の手で謀殺された。これにより、契丹は突厥の傘下に入ることとなった。[[700年]]、李楷固ら、かつての孫万栄から唐に降伏した将によって、契丹は敗北する。
[[ファイル:Map of The east barbarian 5.png|thumb|250px|[[8世紀]]、[[9世紀]]の東夷諸国。]]
[[714年]]([[715年]]?)、契丹首領の李失活(李尽忠の従父弟)が部族を率いて、[[玄宗 (唐)|玄宗]]期の唐に降伏する。李失活は改めて、松漠都督となり、松漠郡王に任じられる。李失活は[[長安]]に出向き、717年、宗室外の女子である永楽公主の降嫁を受ける。718年、李失活が死去し、その従父弟の娑固が後を継いだ。娑固は、大臣であり、驍勇で衆心を得ていた可突干と不仲となり、可突干に攻められ、営州まで逃亡する。唐の営州都督は、娑固と奚王・李大輔および唐軍の精鋭500名に可突干を攻撃させるが、娑固・李大輔は殺され、唐軍の将は捕らえられる。営州都督は西に逃亡した。可突干は、娑固の従父弟にあたる鬱干を立て、唐に罪を乞うたので、鬱干が松漠都督に任じられた。
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===遼の滅亡後===
一方で[[]]が滅びた時に残った人々は[[ (王朝)|金]]の中で諸色人に入れられて、厳しい収奪を受けた上に対[[南宋]]戦争では兵士として狩り出され、これに反発した契丹族は度々反乱を起こした。特に金の[[海陵王]]の時の反乱は、海陵王が殺される大きな要因となった。
 
[[モンゴル・金戦争|金滅亡]]後は[[チンギス・カン|チンギス・ハーン]]率いる[[モンゴル帝国]]の下で[[漢民族|漢人]]に組み入れられた。元来遊牧民でモンゴル周辺部に居住していた彼らは、ほとんどがモンゴル人と普通に会話でき、大半は中国語や漢文にも長けていた。その為漢人とモンゴル人の橋渡しを行うことが多く、この中に[[モンゴル帝国]]に仕えた[[耶律楚材]]がいる。
 
==文化・習俗==
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===宗教===
遼代に[[仏教]][[道教]][[儒教]]が流入する以前は、上記の木吐山と魂を司る黒山に神が宿るとして、木吐山神黒山神日を祀り信仰していた。
 
===政治体制===
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==構成部族==
{{満州の歴史}}
以下は『[[魏書]]』と『北史』に記載の部族名。括弧内は『魏書』顕祖紀『[[通典]]』の表記<ref group="注釈">『魏書』契丹伝および『[[遼史]]』は『魏書』顕祖紀勿吉伝と記述が異なり、匹黎爾部を匹絜部と黎部の2つの部と錯誤。また、羽真侯部を契丹古八部から漏らしたとされる。</ref>。
*悉万丹部
*阿大何部
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*摩会(? - ?)
*辱紇主曲拠(? - ?)…契丹大酋。[[玄州]][[刺史]]となる。
*李窟哥(? - ?)…唐の左武衛将軍となり、左領軍将軍兼松漠都督府無極県男となる。李姓を賜う。
*李枯莫離(? - ?)…窟哥の曾孫。唐の左衛将軍兼検校弾汗州刺史を歴任し、帰順郡王となる。
*孫敖曹(? - ?)…来降した突厥人。[[隋]]の金紫光禄大夫雲麾将軍行遼州総管となる。
*孫万栄(? - ?)…孫敖曹の曾孫。唐の右玉鈐衛将軍帰誠州刺史永楽県公となる。
*李尽忠(? - ?)…窟哥の子孫。唐の右武衛大将軍兼松漠都督。無上可汗を自称。
*李失活(? - [[718年]])…尽忠の従父弟。唐の松漠郡王左金吾衛大将軍兼松漠都督となる。
*娑固(718年 - ?)…失活の従父弟。
*可突干(? - [[734年]]?)…娑固の大臣。
*鬱干(? - [[723年]])…娑固の従父弟。松漠郡王唐の左金吾衛員外大将軍兼静析軍経略大使となる。
*吐干(723年 - ?)…鬱干の弟。遼陽郡王となる。
*邵固([[725年]] - [[730年]])…尽忠の弟。左羽林軍員外大将軍静析軍経略大使広化郡王となる。
*屈烈(730年 - 734年)→李過折([[735年]])…洼可汗。契丹衙官。北平郡王特進検校松漠州都督となる。
*剌干(? - ?)…過折の子。左驍衛将軍となる。
*李懐秀(736年 - 745年)…阻午可汗。契丹大酋。松漠都督崇順王となる。
*楷落(746年 - 788年頃)…胡剌可汗。
*悔落拽何(788年頃 - 794年)…契丹大首領。
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*介落(817年- ? -835年)…契丹首領、のち契丹大首領。
*涅列懐(836年 - ?)…契丹大首領。
*屈戍(? -842年- ?)…耶瀾可汗。雲麾将軍守右武衛将軍員外置同正員となる。
*習爾(? -860年-873年- ?)…巴剌可汗。契丹王。
*欽徳→沁丹(882年頃 - 906年)…痕徳菫可汗。習爾の族人。
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11~13世紀における、[[モンゴル高原]]の[[モンゴル人]]にとって、「中国」とは、[[漢民族]]の[[宋 (王朝)|宋]]ではなく、契丹の遼であった。そのため、モンゴル語では「中国」のことを「契丹」で呼ぶようになった。
 
[[モンゴル帝国]]の拡大に伴い、モンゴル人が[[中央アジア]]や[[西アジア]]に移住した結果として、同時代の[[アラビア語]][[ペルシア語]]文献には、契丹や広く北中国全域を指す場合「ハター(ウ)」ないし「ヒター(ウ)」 الخطاء al-Khaṭā'/al-Khiṭā' と呼ぶようになった。特に中央アジア・イランで編纂されたペルシア語の地理書・年代記などでは、([[ソグド語]]の時代から)中国全般を指す「チーン([[支那]])」چين Chīn ないし「チーニスターン([[震旦]])」 چينستان Chīnisān という呼称が存在し、13世紀半ばまでは北中国を指す別の呼称として「タムガーヂュ([[拓跋氏|拓跋]])」 طمغاج Ṭamghāj などの語も使われていた。
 
モンゴル帝国時代以降は「ハターイ(ー)」ないし「ヒターイ(ー)」ختاى Khatāī/Khittāī という表記が一般化し、これ以降、北中国方面を指す言葉として「ヒターイー(ハターイー)」が定着していったようである。