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{{基礎情報 武士
'''藤原 宗円'''(ふじわら の そうえん、[[長元]]6年([[1033年]]) - [[天永]]2年([[1111年]])[[10月18日 (旧暦)|10月18日]])は[[平安時代]]後期の人物。のちに[[下野国|下野]]を地盤に活動した[[宇都宮氏]]の祖とされる人物。父は[[藤原兼房 (中宮亮)|藤原兼房]]。子に[[八田宗綱]](中原宗綱、宇都宮宗綱)。宇都宮氏初代当主と目される。「粟田宗円」とも呼ばれる。
| 氏名 = 藤原 宗円
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 時代 = [[平安時代]]後期
| 生誕 = [[長元]]6年([[1033年]])<br>または[[長久]]4年([[1043年]]){{refnest|group="注釈"|享年については69と記すもの<ref>『宇都宮正統系図』など。</ref>と79と記すもの<ref>『下野国誌』『輪王寺 日光山列祖伝』など。</ref>とがある。但し、没年を79とした場合、兄であるはずの兼仲の年齢を上回ってしまうため、69を有力とする見解もあるが、兼仲と宗円の関係については、どちらが兄となるかは確定的にはなっておらず、兄弟である事にも疑義があるため、確定的な没年齢は不明である。なお、野口実は69歳説の場合、前九年の役が発生したのが宗円11歳の時のことになってしまうことを指摘して、同説が正しいとなると凶徒調伏の逸話も実際には[[後三年の役]]の出来事であった可能性も検討されるとしている<ref>野口、2015年、P191-192.</ref>。}}
| 死没 = [[天永]]2年[[10月18日 (旧暦)|10月18日]]([[1111年]][[11月20日]])
| 改名 =
| 別名 = 粟田宗円、宇都宮兼綱<ref group="注釈">栃木県益子町上大羽の地蔵院にある墓所の銘が「兼綱」となっている。</ref>
| 戒名 =
| 墓所 = 日光山[[輪王寺]]{{refnest|group="注釈"|宇都宮家の『先祖墳墓地頂戴執成依頼状』<ref>『塩谷町史 第二巻・中近世資料編』掲載。</ref>に『先祖宗円墓所ハ日光山(輪王寺)ニ御座候』とあり。}}<br>[[栃木県]][[宇都宮市]]下荒針町の宗円塚<br>栃木県宇都宮市新里町のオカザキ山<br>栃木県益子町上大羽の地蔵院(旧尾羽寺)
| 官位 =
| 幕府 =
| 主君 =
| 藩 =
| 氏族 = [[藤原北家]][[藤原道兼|道兼]]流<ref group="注釈">宗円自身は同じ藤原北家でも[[中御門流]]出身とする説、あるいは[[中原氏|中原姓]]出身とする説もある。</ref>[[宇都宮氏]]
| 父母 = 父:[[藤原兼房 (中宮亮)|藤原兼房]]<ref>『[[尊卑分脈]]』や『宇都宮系図』(『[[続群書類従]]』巻第152所収)など。</ref> 母:[[源高雅]]娘
| 兄弟 = [[藤原兼仲 (道兼流)|兼仲]]、'''宗円'''、左大臣家少輔、静範、円範
| 妻 = 正室:'''[[益子正隆]]娘'''
| 子 = 養子:'''[[八田宗綱]]'''、[[中原宗房]]
}}
 
'''藤原 宗円'''(ふじわら の そうえん)は、[[平安時代]]後期の人物。後に[[下野国]]を地盤に活動した[[宇都宮氏]]の初代当主と目される。
[[尊卑分脈]]や宇都宮系図等の各種系図上では、[[藤原氏]][[藤原北家|北家]]の[[藤原道兼|道兼]]流で、道兼の孫である兼房の子とされる。[[前九年の役]]の際に[[河内源氏]]の[[源頼義]]、[[源義家|義家]]父子に与力し、凶徒調伏などで功績を認められ、下野國[[守護職]]および下野國[[一之宮]][[別当]]職、[[宇都宮座主]]の位を得た。もともと石山寺(現在の[[大谷寺 (宇都宮市)|大谷寺]]との説もある)座主であったとも言われ、仏法を背景に勢力を拡大したと考えられている。宗円は[[毛野氏]]の支配下にあったと推測される下野國一之宮において、その神職者より上座に座したことが伝えられており、このことから毛野氏の流れを汲む人物(毛野氏への藤原氏の落し種)と推察されているほか、室が[[益子正隆]]の娘であったことや、次代宗綱が八田姓とされる点などから、その勢力は下野国のみならず[[常陸国]]西部付近([[茨城県]][[下館市]]付近)にも達しており、[[芳賀氏]]、[[益子氏]]、[[八田氏]]をその勢力下に置いていたと推定されている。
 
== 概要 ==
天永2年(1111年)10月18日、79歳で没する。
『[[尊卑分脈]]』や宇都宮系図などの各種系図上では、[[藤原氏]][[藤原北家|北家]]の関白[[藤原道兼]]の流れを汲み(道兼流)、道兼の孫である[[藤原兼房 (中宮亮)|兼房]]の次男<ref>『下野国誌』</ref>とされる。また、近年の新説として[[野口実]]が『[[中右記]]』に[[園城寺]](三井寺)の僧侶に「宗円」という僧侶が登場することを指摘した上で、同記を根拠として道兼の弟である[[藤原道長]]の流れを汲み、道長の孫である[[藤原俊家]]([[中御門流]])の子で[[三井寺]]に入っていた<ref group="注釈">野口は『中右記』康和4年4月19日条・同5年10月8日条に登場する「三井寺禅師宗円君」を藤原宗円と比定し、同天仁2年10月26日条裏書に記載された大宮右大臣(藤原俊家)の子である「三井寺禅師」と同一人物であるとしている。</ref>とする説を提示している<ref>野口、2015年、P190-193.</ref>。園城寺は前九年の役の際に祈祷の功績があったと主張しており<ref>『吾妻鏡』元暦元年11月23日条</ref>、宗円が園城寺出身であるとすればその主張を裏付けることになる<ref>野口、2015年、P192.</ref>。また、[[建保]]2年([[1214年]])に火災で焼失した園城寺と付属の山王神社を再建した際、[[宇都宮頼綱]](系譜では宗円の玄孫にあたる)が山王神社の再建を一手に引き受けており、宇都宮氏と園城寺の特殊な関係性が推測される<ref>野口、2015年、P192-193.</ref>。
 
[[前九年の役]]の際に[[河内源氏]]の[[源頼義]]、[[源義家|義家]]父子に与力し、凶徒調伏などで功績を認められ、[[康平]]6年([[1063年]])に下野国[[守護職]]および[[二荒山神社|下野国一宮]][[別当]]職、宇都宮座主となるが、もともと石山寺(現在の[[大谷寺 (宇都宮市)|大谷寺]]との説もある)の座主であったとも言われ、仏法を背景に勢力を拡大したと考えられている。また、[[延久]]2年([[1070年]])に義家が前九年の役などの功績によって下野守に任ぜられており、その時に宗円も宇都宮座主に任ぜられた可能性もある<ref>野口、2020年、P13.</ref>。
一説に[[宇都宮城]]を築城し、城内に[[天台宗]][[延命院 (宇都宮市)|宝錫寺]]を建立したと云われる。
 
[[尊卑分脈]]や宇都宮系図等の各種系図上では、[[藤原氏]][[藤原北家|北家]]の[[藤原道兼|道兼]]流で、道兼の孫である兼房の子とされる。[[前九年の役]]の際に[[河内源氏]]の[[源頼義]]、[[源義家|義家]]父子に与力し、凶徒調伏などで功績を認められ、下野國[[守護職]]および下野國[[一之宮]][[別当]]職、[[宇都宮座主]]の位を得た。もともと石山寺(現在の[[大谷寺 (宇都宮市)|大谷寺]]との説もある)座主であったとも言われ、仏法を背景に勢力を拡大したと考えられている。宗円は[[毛野氏]]の支配下にあったと推測される下野宮において、その神職者より上座に座したことが伝えられており、このことから毛野氏の流れを汲む人物(毛野氏への藤原氏の落し種)と推察されている<ref group="注釈">藤原俊家を父とする野口説に従えば、宗円は右大臣の子という貴種の出身となり、神職者より上座に座ることに問題は無い。</ref>ほか、室が[[益子正隆]]の娘であったことや、次代宗綱が八田姓とされる点などから、その勢力は下野国のみならず[[常陸国]]西部付近(現在の[[茨城県]][[下館市]]付近)にも達しており、[[芳賀氏]]、[[益子氏]]、[[八田氏]]をその勢力下に置いていたと推定されている。
== 関連項目 ==
*[[宇都宮氏]]
 
天永2年(1111([[1111]])10月18日、79歳で没する。
{{先代次代|[[宇都宮氏|宇都宮氏歴代当主]]|藤原宗円| |[[八田宗綱]]}}
 
一説に[[宇都宮城]]を築城し、城内に[[天台宗]][[延命院 (宇都宮市)|宝錫寺]]を建立したとわれる。
 
== 略系図 ==
〈藤原北家道兼流〉説
     [[藤原道兼]]
     ┣━━━┳━━━┓
     [[藤原兼隆|兼隆]]  [[藤原兼綱|兼綱]]  [[藤原兼信|兼信]]
     ┃
     [[藤原兼房 (中宮亮)|兼房]]
     ┃
     '''宗円'''([[宇都宮氏]])
 
〈藤原北家道長流〉説
     [[藤原道長]]
     ┣━━━┳━━━┓
     [[藤原頼宗|頼宗]]  [[藤原頼通|頼通]]  [[藤原教通|教通]]
     ┃
     [[藤原俊家|俊家]]
     ┣━━━━━━━┳━━━┓
     '''宗円'''([[宇都宮氏]])[[藤原基頼|基頼]]  [[藤原宗俊|宗俊]]
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist}}
 
== 参考文献 ==
* [[野口実]]「下野宇都宮氏の成立とその平家政権下における存在形態」『東国武士と京都』[[同成社]]、2015年10月、{{ISBN2|978-4-88621-711-0}}、pp. 189-214。(初出: [[京都女子大学]]宗教・文化研究所『研究紀要』第26号(2013年2月)、{{CRID|1050001337576100096}}。)
* 野口実「宇都宮氏の成立と河内源氏」、[[江田郁夫]] 編著『中世宇都宮氏 : 一族の展開と信仰・文芸』[[戎光祥出版]]〈戎光祥中世史論集 第9巻〉、2020年1月、{{ISBN2|978-4-86403-334-3}}、pp. 10-28。
 
{{下野宇都宮氏歴代当主|1063年 - 1111年|宇都宮氏|初代}}
{{DEFAULTSORT:ふしわら の そうえん}}
*[[Category:宇都宮氏]]
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[[Category:1033年11世紀生]]
[[Category:1111年没]]
[[Category:宇都宮氏|*]]
[[category:平安時代の人物]]