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史書によれば、契丹、[[室韋]]、[[庫莫奚]]、[[豆莫婁]]は同じ言語であると記されている<ref>『魏書』列伝第八十八、『北史』列伝第八十二</ref>。
 
[[12世紀]]、中国[[宋 (王朝)|宋代]]の『[[夷堅志]]』([[1198年]]頃)は「契丹の小児ははじめ漢文を読むのに、まず俗語でその文句を顚倒して習っている。たとえば漢文で『鳥宿池中樹。僧敲月下門』という詩の句を読むとき、『月明裏和尚門下打。水底裏樹上老鴉坐』とするのである」と伝えており、契丹語の構成法は[[アルタイ系]]のSOV型であると推測することができる。[[19世紀]]、契丹語史料の研究が進むと、ドイツの[[ユリウス・ハインリヒ・クラプロート]]は[[満州語]]に似ているとし([[1823年]])、ショットも[[ツングース系]]に属すと推定した([[1880年]])。これに対し、日本の[[白鳥庫吉]]は中国史書から契丹語を抽出し、これを当時の北アジア諸民族の言語と比較した結果、ある単語はモンゴル語、またある単語はツングース語で解きえるとし、契丹語はモンゴル語とツングース語の混成であると推論、現代でいえば{{仮リンク|ソロン人|en|Solon people}}か[[ダフール人]]かのどちらかに該当するとした。さらにソロン人とダフール人の使用する[[数詞]]と、中国の史書の中から抽出した契丹語の数詞「一、五、百」の三語を対照させて、それが[[ダフール語]]に最も近似しているとした([[1912年]])。またロシアの[[ニコラス・ポッペ]]の研究によってダフール語はモンゴル語の古形をとどめるモンゴル語の一方言であることが明らかにされた([[1934年]])。よって、契丹語はモンゴル語の古形をとどめるモンゴル語の一方言に最も近い言語と考えてよい。<ref>島田正郎編『契丹国 遊牧の民キタイの王朝【新装版】』(東方書店、2014年)p99-100</ref><ref>契丹語はモンゴル語族に属するか或はモンゴル語と非常に近しい。『契丹小字研究』</ref>
 
===文字===
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[[英語]]で中国の旧名である{{lang|en|Cathay}}、[[ロシア語]]で中国を意味する{{lang|ru|[[wikt:Китай|Китай]]}}(Kitay)<ref>但し、現代のロシア語では契丹のことは普通{{lang|ru|Кидани}}と呼び、中国と混同することはない。</ref>、[[モンゴル語]]で中国あるいは漢民族を示す{{lang|mn|[[wikt:Хятад|Хятад]]}}(Hyatad)などは契丹に由来する。<ref>これらの名称は本来、[[シルクロード]]で結ばれた陸にある中国という概念を指した。[[マルコ・ポーロ]]で有名な「カタイ」がこれと同じである。一方、{{lang|en|China}}系の名称は海から行く中国という概念を指した。[[ヨーロッパ]]では長い間中国はひとつなのかふたつなのかという論争があり、これら二系統の名称は、どちらも同じ国のことを指しているのだということが明らかになる明〜清初期まで[[西ヨーロッパ|西欧]]で用いられた。西欧ではその後{{lang|en|China}}系に淘汰されていったが、逆にロシアやモンゴルといった「海の中国」と関わりの薄い地域では「陸の中国」である{{lang|en|Cathay}}系の名称が現代に至るまで使われている(ロシア語には{{lang|en|China}}に相当する単語は存在しない)。</ref>
 
11~13世紀における、[[モンゴル高原]]の[[モンゴル人]]にとって、「中国」とは、[[漢民族]]の[[宋 (王朝)|宋]]ではなく、契丹の遼であった。そのため、モンゴル語では「中国」のことを「契丹」で呼ぶようになった。
 
[[モンゴル帝国]]の拡大に伴い、モンゴル人が[[中央アジア]]や[[西アジア]]に移住した結果として、同時代の[[アラビア語]],[[ペルシア語]]文献には、契丹や広く北中国全域を指す場合「ハター(ウ)」ないし「ヒター(ウ)」 الخطاء al-Khaṭā'/al-Khiṭā' と呼ぶようになった。特に中央アジア・イランで編纂されたペルシア語の地理書・年代記などでは、([[ソグド語]]の時代から)中国全般を指す「チーン([[支那]])」چين Chīn ないし「チーニスターン([[震旦]])」 چينستان Chīnisān という呼称が存在し、13世紀半ばまでは北中国を指す別の呼称として「タムガーヂュ([[拓跋氏|拓跋]])」 طمغاج Ṭamghāj などの語も使われていた。