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=== 第二次世界大戦後 ===
[[画像:Attu peace monument.jpg|thumb|180px|right|北太平洋戦没者の碑(2007年7月に撮影)]]
小樽に移されていたアレウトの島民は、戦争が終わった時25人が生き残っていた<ref name="suzuki-2011">{{cite web|url=https://www.jnpc.or.jp/journal/interviews/22571|title=日米の争いの谷間に傷つく 忘れえぬ“玉砕”の影にいた人々|author=鈴木顕介|date=2011-2|publisher=日本記者クラブ|accessdate=2020-8-5}}</ref>。合衆国当局はかれらの置かれた状況を把握していなかったと言明した<ref>{{cite news|url=http://archives.chicagotribune.com/1943/08/08/page/13/article/attu-mystery-what-happened-to-45-indians|title=Attu Mystery: What Happened to 45 Indians?|newspaper=[[Chicago Tribune]]|date=1943-08-08|page=13}} – [http://archives.chicagotribune.com/1943/08/08/page/13/large.jpg Page view]</ref>。合衆国政府ははアッツ島の村を再建維持するには十分な人数がいないとして帰島を認めず、850km離れた[[アトカ島]]に送られた<ref name="doshin-yokuryu5">「<消えた外国人 戦時の抑留>5 狂った人生 きずな、風化する前に」『北海道新聞』2016年8月15日</ref>。背景としては、冷戦へと発展していく米ソ対立を前に、アリューシャン列島の西半分を無人とする方針があった<ref name="suzuki-2011"/>。
 
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| archive-date = May 16, 2013
| agency = [[Associated Press]]}}</ref>。
 
2008年2月には、アメリカ空軍の退役軍人グループが、日本が建てた記念碑を撤去あるいは移転し、米国で募金して制作した記念碑を2つ(1つは島で死亡した日本兵に、1つはアメリカ軍人に)建てた。
 
[[2010年]]に[[NHKスペシャル]]『玉砕 隠された真実』の制作にあたっては、[[日本放送協会|NHK]]とアメリカ政府との交渉により上陸・撮影の許可が下りている。
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|File:Attu Coastguard Station.jpg|沿岸警備隊のLOLAMステーション(1997年)
}}
 
== 記念碑 ==
[[画像:Attu peace monument.jpg|thumb|180px|right|北太平洋戦没者の碑(2007年7月に撮影)]]
2017年現在、アッツ島には記念碑が14ある。
 
うち5つは日本(日本人)によって建てられたもので、4つまでがエンジニア・ヒルにある<ref name="cloe-2017">{{cite book|url=https://www.nps.gov/aleu/planyourvisit/upload/Attu-Forgotten-Battle-Optimized-508.pdf|title=Attu, the Forgotten Battle|author=John Haile Cloe||publisher=Department of the Interior, National Park Service, Alaska Affiliated Areas, Aleutian World War II National Historic Area|isbn=0-9965837-3-4|year=2017|accessdate=2020-8-6}}</ref>{{rp|135, 173}}。最も大きなものは1982年に日本政府が建てた「北太平洋戦没者の碑」(英語ではPeace Memorial)である<ref name="cloe-2017"/>{{rp|135, 173}}。その近くには、家族が建てたと思われる大村紀二軍医中尉の記念碑(2013年時点でかなり劣化しており、2016年には行方不明になっている)<ref name="cloe-2017"/>{{rp|173-174}}、1953年に日本兵の遺体が[[:en:Fort Richardson National Cemetery|Fort Richardson National Cemetery]]に改装されたことを記念した「鎮魂」の石版<ref name="cloe-2017"/>{{rp|173-174}}、1978年に北海道知事[[堂垣内尚弘]]の名と「鎮魂」の文字を記した青銅製の銘板である<ref name="cloe-2017"/>{{rp|173-174}}。
 
戦闘が終わって間もなく、アメリカ軍は戦場に解説バネルを立てたが、その中にはアッツ村があった場所を示すものと、[[山崎保代]]大佐の勇敢さを讃えるものがあった<ref name="cloe-2017"/>{{rp|135}}。これらのパネルは1950年にコンクリートの台座に置かれた青銅製の[[銘板]])に置き換えられた<ref name="cloe-2017"/>{{rp|135}}。山崎大佐を讃えるものは、戦死した地点(Clevesy Pass の麓)とエンジニアヒルの2か所にあるが、摩耗が激しい<ref name="cloe-2017"/>{{rp|173}}。アッツ村跡地には、米軍が作り1950年に更新したものと、1993年6月にアリュート人の組織{{enlink|The Aleut Corporation}}によって建てられた日本抑留を記念する銘板がある<ref name="cloe-2017"/>{{rp|135, 173-177}}。
 
かつての沿岸警備隊の基地には4つの記念碑がある<ref name="cloe-2017"/>{{rp|135}}。1つはエリック・ネルソン准将(1924年に初の航空機による世界一周を成し遂げたパイロットの一人)を讃える記念碑であるが来歴は不明である<ref name="cloe-2017"/>{{rp|135}}。別の記念碑は1981年に、アメリカ海軍のチャプレンが「アリューシャンでアメリカのために戦った人を讃える記念碑がない」と発言したことに触発されて建てられたものである<ref name="cloe-2017"/>{{rp|135}}。第3の記念碑は1993年6月、アメリカ軍の退役軍人、アリュート人の生存者、山崎大佐の息子を含む日本人代表団が列席した追悼式で捧げられたもので、アッツで戦い死んだすべての人を讃える<ref name="cloe-2017"/>{{rp|135}}。4番目の記念碑は第17歩兵連隊の退役軍人 Bill Jones (アッツ島の戦いで負傷した)が、彼とともに戦い死んだ人々を讃える。
 
Clevesy Pass の麓には、別のグループが第50工兵連隊を讃える標識を立てた<ref name="cloe-2017"/>{{rp|136}}。
 
Bill Jones が死去した時、退役軍人(朝鮮戦争参加者)の Jack Jonas は、"Japanese Peace Memorial" を撤去しようという主張を始めた<ref name="cloe-2017"/>{{rp|137}}。それが不可能であると判明すると、Jonas はアメリカ人を讃える同様の記念碑を建てることとし、[[アラスカ州]]や[[合衆国魚類野生生物局]]もそれならば可能であると認めた<ref name="cloe-2017"/>{{rp|137}}。2013年6月、アッツ島の戦いで[[名誉勲章]]を授賞した[[:en:Joe P. Martínez|Joe P. Martínez]]二等兵を讃える記念碑がHenderson River の川岸に建てられるとともに、付近に4枚の解説版(それぞれアリューシャン方面の戦い、アッツ島の戦い、アリュート人の抑留、マルティネス二等兵についての)が建てられた<ref name="cloe-2017"/>{{rp|137}}。
 
== 人口 ==
{{US Census population