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|today = [[中国]]<br>[[新疆ウイグル自治区]]
}}
'''ホータン王国'''([[ガンダーラ語]]:コータンナ、{{lang-en-short|Kingdom of Khotan}})は[[シルクロード]]の一つ[[シルクロード#「オアシスの道」|西域南道]]沿いにあった仏教王国<ref name=silk>{{Cite |和書|title=読む事典シルクロードの世界 |editor=シルクロード検定実行委員会 |publisher=NHK出版 |date=2019-02 |isbn=9784140817742 |page=262}}</ref>。[[タリム盆地]]の[[タクラマカン砂漠]]の南に位置する。現在では[[中華人民共和国]][[新疆ウイグル自治区]]にあたる。漢語では'''于闐'''(うてん)、'''于寘'''(うてん)。'''コータン王国'''とも書かれる<ref name=silk />
 
ホータン王国の首都は現在の[[ホータン市]]にあたる。[[漢]]・[[唐]]代の中国では「于窴」として知られていた。[[オアシス]]沿いにあり、植えられていた[[クワ]]による[[絹]]および[[絹織物]]、その他[[ヒスイ|軟玉]]、[[硬玉]](共にヒスイの一種)および[[陶磁器]]を輸出していた。
 
==歴史==
=== 漢王朝 ===
[[Image:KingGurgamoyaKhotan1stCenturyCE.jpg|thumb|right|250px|ホータン王Gurgamoyaの硬貨。1世紀。表面:[[カローシュティー文字]]で「偉大なる王、ホータンの王、Gurgamoya」。裏面:中国語で「重廿四銖銅銭」(24銖銅銭,写真下部の文字が「銅」)]]
中国の漢代にホータンを含む西域諸都市は、時には漢に服属し、時には匈奴に貢納し、時には独立して互いに攻伐したが、直接外国に統治されたことはなかった。[[1世紀]]に作られた『[[漢書]]』によれば、于寘の王は西城におり、3千3百戸、人口1万9300人、兵士2400人がいた。また輔国侯、左右の将、左右の騎君、東西の城長、譯長がいた<ref>『漢書』西域伝第66上。ちくま学芸文庫版『漢書』8、60頁。</ref>『[[後漢書]]』によれば、于寘国は西城に居り、3万2千戸、人口8万3千、兵士3万人余を支配していた<ref>『後漢書』西域伝第78、于寘国条。吉川忠夫訓注『後漢書』第10冊207-208頁。</ref>。
 
[[太初 (漢)|太初]]3年([[紀元前102年]])に前漢の[[李広利]]が[[大宛]]に遠征してから、西域諸国は漢に服属していたが、[[王莽]]が[[新]]([[8年]]-[[23年]])を立てると離反して[[匈奴]]に属した<ref>『後漢書』西域伝第78、冒頭部。吉川忠夫訓注『後漢書』第10冊193頁。李広利については注1。</ref>。諸国が匈奴に属する中、タリム盆地の西部に位置する莎車国(現在の[[ヤルカンド県]])だけが漢に通じ、近隣諸国を破って服属させた<ref>『後漢書』西域伝第78、莎車国条。吉川忠夫訓注『後漢書』第10冊227-229頁。</ref>。
 
[[ファイル:汉朝行政区划(繁).png|thumb|none|500px|[[前漢]]時代の勢力図]]
 
[[太初 (漢)|太初]]3年([[紀元前102年]])に前漢の[[李広利]]が[[大宛]]に遠征してから、西域諸国は漢に服属していたが、[[王莽]]が[[新]]([[8年]]-[[23年]])を立てると離反して[[匈奴]]に属した<ref>『後漢書』西域伝第78、冒頭部。吉川忠夫訓注『後漢書』第10冊193頁。李広利については注1。</ref>。諸国が匈奴に属する中、タリム盆地の西部に位置する莎車国(現在の[[ヤルカンド県]])だけが漢に通じ、近隣諸国を破って服属させた<ref>『後漢書』西域伝第78、莎車国条。吉川忠夫訓注『後漢書』第10冊227-229頁。</ref>。
 
莎車国王の賢は[[建武 (漢)|建武]]([[25年]]-[[56年]])の終わりごろ、于寘王の兪林を驪帰王に更迭し、弟の[[位侍]]を于寘王とした。しかし賢は諸国の反乱を疑い、一年余り後に[[拘弥]]・[[姑墨]]・[[子合]]の王とともに位侍を呼び寄せてみな殺した。王を失った于寘には将を派遣した<ref>『後漢書』西域伝第78、莎車国条。吉川忠夫訓注『後漢書』第10冊233頁。</ref>。[[永平 (漢)|永平]]3年([[70年]])に将軍の[[君得]]が大人(有力者)の[[都末]]とその兄弟に殺された。将軍の[[休莫覇]]が漢人の[[韓融]]ともに都末兄弟を殺し、自ら于寘王になった。休莫覇は莎車との戦いで死んだが、翌年その兄の子の[[広徳 (于闐王)|広徳]]が賢を殺した<ref>『後漢書』西域伝第78、莎車国条。吉川忠夫訓注『後漢書』第10冊234-235頁。</ref>。広徳は子を匈奴に人質として送り<ref>『後漢書』西域伝第78、莎車国条。吉川忠夫訓注『後漢書』第10冊235頁。</ref>、漢にも子を送って仕えさせつつ<ref>『後漢書』西域伝第78、冒頭部。吉川忠夫訓注『後漢書』第10冊194頁。</ref>、盆地の中南部にある[[精絶]]から、西端の[[疏勒]]まで、13国を従えた<ref>『後漢書』西域伝第78、于寘国条。吉川忠夫訓注『後漢書』第10冊208頁。</ref>。結局西域は漢の[[班超]]が服属させるところとなったが、于寘はタリム盆地の南の諸都市の中で大国とされた。
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<!--ホータンから天山南路を西に進むと、[[グマ県|グマ]]、[[カルギリク県|葉城]]、[[:en:Shahidulla|en]]を経由して、Dereに到着する。<ref>Hill, John E. 2003. "Annotated Translation of the Chapter on the Western Regions according to the ''Hou Hanshu''." 2nd Edition. [http://depts.washington.edu/silkroad/texts/hhshu/hou_han_shu.html]</ref>-->
 
=== イスラム化 ===
[[11世紀]]の始めに、イスラムの侵攻を受けてその支配下に入った。[[1271年]]から[[1275年]]の間にホータンを訪れた[[マルコ・ポーロ]]は、ホータンの人々は、皆マホメットの信奉者であると報告している。
 
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伝説によると、インドの仏教徒皇帝[[アショーカ]]の長男が、[[紀元前3世紀]]初めに国の基礎を建てたという。しかしながら、これより数世紀前から[[月氏]]による中国(現在の中国でなく[[西域]]を除く地域)との軟玉、硬玉の[[貿易]]があったことが知られている。ホータンで産出する玉は「禺氏の玉」と呼ばれ、貴重な上あまり産出しない中国では珍重された。これが[[和田玉]]である。この禺氏は月氏のことである。
 
その後3世紀ごろには[[説一切有部]]が盛んであったがホータン王国5世紀に仏教とりわけ[[大乗仏教]]の中心地のひとつとなった<ref name=silk />(これに対して砂漠の反対側にある[[亀茲国]]は[[縁覚]]系の仏教王国だった)。[[東晋]]の僧の[[法顕]]が、[[5世紀]]始めにホータン王国にある大小14の僧院を訪れている<ref name=silk /><ref>Silkroads foundation [http://www.silk-road.com/artl/fahsien.shtml Travels of Fa-Hsien - Buddhist Pilgrim of Fifth Century By Irma Marx], 2007-08-02 access</ref>。文化交流により、[[中国語]]、[[サンスクリット語]]、[[プラークリット語]]、[[チベット語]]などが使われていた。
 
ホータンは、中国外で[[絹]]が生産された初めての場所だった。[[考古学]]者の発掘作業で発見された壁画には、ホータン王に嫁いで来た中国の王女が、髪の中に[[カイコ]]の卵を隠していたと記されており、[[1世紀]]頃の出来事と見られる<ref>Hill, John E. 2003. "Annotated Translation of the Chapter on the Western Regions according to the ''Hou Hanshu''." 2nd Edition. Appendix A. [http://depts.washington.edu/silkroad/texts/hhshu/hou_han_shu.html#a]</ref> 。