清教徒革命

17世紀にイングランド・スコットランド・アイルランドで起きた内戦・革命

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清教徒革命(せいきょうとかくめい;Puritan Revolution)は、1642年から1649年にかけてイングランドで起きた市民革命ピューリタン革命ともいう。

清教徒(ピューリタン)とは、当時(16~17世紀)における、イングランドでのプロテスタントの総称である。元々は異端者を嘲笑するための語であったが、のちにプロテスタントによって積極的にこの語が使用されるようになった。

1603年、エリザベス女王の死去。スコットランド王ジェームズ6世が王位を継承し、イギリス王ジェームズ1世となる。ジェームス1世は市民に対し「王権神授説」国王の権力は神によって与えられたものだという主張をしたが、議会(下院)の反発を高めただけだった。外国人である国王の権力は強固とは言えなかったことから、王権の支柱となるイギリス国教会の信仰を市民に強制するようになった。信仰の強制は清教徒の反発をかうこととなった。

チャールズ1世の時代になり、議会を解散し11年間に議会を召集しないなどさらに強圧的な政策がとられ、国王と市民の間の亀裂は深まった。スコットランド経営の失敗を機に豪族・地主を中心とする国王派と清教徒・市民・自営農民を中心とする議会派が対立した。

オリヴァー・クロムウェルが率いる議会軍が国王軍を破り、国王チャールズ1世1649年に処刑された。

この後、イングランドは共和制国家となるが、清教徒同士の内紛などもあり、1660年チャールズ2世を国王として王政が復古し、清教徒革命は終了した。