河越直重

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河越 直重(かわごえ なおしげ、生没年不詳)は南北朝時代から室町時代初期の武蔵国国人武蔵平一揆の中心人物の一人。武蔵河越氏最後の当主。河越高重の子。河越館城主。弾正少弼。相模守護。

生涯

河越高重の子として生まれる(時期は不明)。父の高重は、1333年鎌倉幕府の滅亡後、新たに鎌倉に派遣された足利直義の支配下に入っており、(直重)の「直」の字はこの縁により直義の偏諱を受けたものと思われる(この場合直義の読みに合わせて「ただしげ」とも読む)。

以後足利尊氏・直義兄弟に臣従するが、やがてこの両名が対立して観応の擾乱が起こると、直重は尊氏派に属し、1352年武蔵野合戦小手指原の戦いでは武蔵平一揆を率いて足利方(尊氏派)の先鋒を務め、直義派が加勢した新田勢を破る。その後、東国における代表的な足利尊氏派の一人として、武蔵国比企郡笛吹峠の戦いでは新田義宗越後国に、宗良親王信濃国に敗走させ、その功で1353年には相模守護職に任じられる。 文和2年(1353年)8月、尊氏が京都へ戻る際には鎌倉の留守を任された。

延文4年(1359年)10月5日、関東管領畠山国清に従い関東勢20万余を率いて上洛した。『太平記』によると、直重は粋で華美な服装や奢侈な振る舞いを好む「ばさら大名」の1人であり、濃紫・薄紅など様々な色に染めた30頭の馬を引き連れた入京で、京の人々の度肝を抜いた。しかし反発も買ったようで、その夜泥棒に入られている。翌年7月、畠山国清・細川清氏らとともに摂津国天王寺に出陣し仁木義長を破った。

康安元年(1361年)11月、畠山国清が鎌倉公方足利基氏(尊氏の子)と対立して鎌倉を出奔し伊豆で挙兵すると、その翌年9月には基氏に従い討伐軍として参加、国清は斬殺となった。基氏の下で旧「直義派」の上杉憲顕が関東管領として復権すると、貞治2年(1363年)、相模守護職を解任される。

応安元年(1368年)2月、上杉憲顕の留守を狙い反乱を起こすが敗れ、伊勢国に敗走した。その後の動向は不明である。

こうして、平安時代から武蔵国の武士団の棟梁で、「武蔵国惣検校職」をつとめてきた名門河越氏は以後表舞台に姿を現すことなく400年の歴史に幕を閉じた(但し、その後応永20年(1413年)の熊野那智大社の記録に「武蔵河越一門」という記録が見られるなど、族滅は逃れていることが確認できる)。