藤原宗円

宇都宮氏の祖

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藤原 宗円(ふじわら の そうえん)は平安時代後期の人物で、後に下野国を地盤に活動した宇都宮氏の初代当主と目される。

 
藤原宗円
時代 平安時代後期
生誕 長元6年(1033年)または長久4年(1043年[1]
死没 天永2年10月18日1111年11月20日
別名 粟田宗円 宇都宮兼綱[2]
墓所 栃木県宇都宮市下荒針町の宗円塚
栃木県宇都宮市新里町のオカザキ山
栃木県益子町上大羽の地蔵院(旧尾羽寺)
氏族 藤原北家道兼[3]宇都宮氏
父母 父:藤原兼房[4]
兄弟 兼仲宗円、左大臣家少輔、静範、円範
正室:益子正隆の娘
八田宗綱中原宗房
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尊卑分脈』や宇都宮系図等の各種系図上では、藤原氏北家の関白藤原道兼の流れを汲み(道兼流)、道兼の孫である兼房の次男[5]とされる。

前九年の役の際に河内源氏源頼義義家父子に与力し、凶徒調伏などで功績を認められ、康平6年(1063年)に下野国守護職および下野国一宮別当職、宇都宮座主となるが、もともと石山寺(現在の大谷寺との説もある)の座主であったとも言われ、仏法を背景に勢力を拡大したと考えられている。

宗円は毛野氏の支配下にあったと推測される下野国一宮において、その神職者より上座に座したことが伝えられており、このことから毛野氏の流れを汲む人物(毛野氏への藤原氏の落胤)と推察されているほか、室が益子正隆の娘であったことや、次代の宗綱が八田姓とされる点などから、その勢力は下野国のみならず常陸国西部付近(現在の茨城県下館市付近)にも達しており、芳賀氏益子氏八田氏をその勢力下に置いていたと推定されている。

天永2年(1111年)10月18日に没する。

一説に宇都宮城を築城し、城内に天台宗宝錫寺を建立したといわれる。

略系図

〈藤原北家道兼流〉

     藤原道兼
      ┣━━━┳━━━┓
     兼隆  兼綱  兼信
      ┃  
     兼房
      ┃  
     宗円宇都宮氏

脚注

  1. ^ 享年については69と記すもの(『宇都宮正統系図』など)と79と記すもの(『下野国誌』など)とがある。
  2. ^ 栃木県益子町上大羽の地蔵院にある墓所の銘が「兼綱」となっている。
  3. ^ 宗円自身は中原姓出身とする説もある。
  4. ^ 尊卑分脈』や『宇都宮系図』(『続群書類従』巻第152所収)など。
  5. ^ 『下野国誌』