アッツ島

アメリカ・アラスカ州にある島

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アッツ島(アッツとう、: Attu Island)は、アラスカ州アリューシャン列島ニア諸島最西部にあるアメリカ領の

アッツ島
アッツ島(航空写真)
所在地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
所在海域 太平洋ベーリング海
所属諸島 ニア諸島[1]
座標 北緯52度54分09秒 東経172度54分34秒 / 北緯52.90250度 東経172.90944度 / 52.90250; 172.90944座標: 北緯52度54分09秒 東経172度54分34秒 / 北緯52.90250度 東経172.90944度 / 52.90250; 172.90944
面積 892.8 km²
海岸線長 56 km
最高標高 897.9 m
プロジェクト 地形
テンプレートを表示
1~5 - ニア諸島 1 - アッツ島 2 - アガッツ島 3~5 - セミチ諸島 3 - アライド島 4 - ニズキ島 5 - シェムリャ島 6 - ブルダー島 7~15 - ラット諸島 7 - キスカ島 8 - 小キスカ島 9 - セグラ島 10 - クヴォストフ島 11 - ダヴィドフ島 12 - 小スィッキン島 13 - ラット島 14 - アムチトカ島 15 - セミソポクノイ島

第二次世界大戦中の1943年日本軍アメリカ軍が激戦を展開した島として知られる(アッツ島の戦い)。第二次世界大戦において北米大陸で唯一の地上戦が行われた場所として、1985年にアメリカ合衆国国定歴史ランドマーク (National Historic Landmark) に指定されている[2]。第二次世界大戦まではアレウト族が定住していたが、日本による占領期に住民は日本本土で抑留され、戦後は米国政府が島民の帰還を認めなかった。島にはアメリカ軍の基地が置かれたが、アメリカ沿岸警備隊の基地が2010年に閉鎖されたために「アメリカ合衆国最大の無人島」となった[3]。海鳥の楽園としても知られ、自然保護区の一部となっており、入島は規制されている。

地理

アラスカ州最西端・アメリカ合衆国最西端の島と説明される島である(より厳密には、アッツ島西端のランゲル岬英語版沖にある岩礁・ピークド島 (Peaked Island (Alaska)が「西端」となる)。ただし「アメリカ合衆国西端」の定義方法には複数ある(アメリカ合衆国の極地)。

アメリカ合衆国の大部分が属する西半球からは180度経線を越えて東半球に入っている(閉鎖以前、島で唯一の居住地であったアメリカ沿岸警備隊のアッツ・ステーションは北緯52度51分 東経173度11分 / 北緯52.850度 東経173.183度 / 52.850; 173.183に位置していた)。西部アリューシャン列島はUTC-10タイムゾーンハワイ・アリューシャン標準時)に属しており、国際日付変更線はアッツ島の西側を通過する。

アッツ島は、アラスカ本土から約1800km離れている。アリューシャン列島のつながりの中で、アッツ島の西にある島は約335km離れたメードヌイ島コマンドルスキー諸島)で、ここはロシア領である。アンカレッジからは約 2,400 km、アラスカ州の州都ジュノーからは約 3,200 km、ニューヨーク市からは約 7,800 km の距離にある。

アッツ島は、長さ(東西)48km、幅(南北)13〜24km[4]。面積は 893 km2 で、米国で23番目に大きな島である。

気候

アッツ島の気候は、アリューシャン列島の気候としては一般的なもので曇りや雨・雪、霧が多く、時折強風も吹く。晴天は1年に8-10日ほどしかない。残りの日は雨が降っていなくても濃さの程度の差はあれ霧が出ているのが通常である。雨などによる年間降水量は39–49インチ (990–1,240 mm) で、秋から初冬にかけて最も降水が多い。 ケッペンの気候区分によると、アッツ島は西岸海洋性気候Cfc)でツンドラ気候ETf)に限りなく近い。高緯度のため気候は非常に寒く、日中の最高気温は夏でも50°F台半ば(10℃台前半)にしかならない。

アッツ島の気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
最高気温記録 °C°F 9
(49)
11
(51)
9
(49)
10
(50)
15
(59)
18
(64)
22
(72)
21
(70)
20
(68)
16
(61)
12
(54)
9
(49)
22
(72)
平均最高気温 °C°F 1.3
(34.4)
1
(34)
1.8
(35.3)
3.6
(38.5)
5.9
(42.7)
9.1
(48.4)
11.4
(52.6)
12.8
(55.1)
11.2
(52.2)
8.2
(46.8)
4
(40)
2.1
(35.7)
6
(43)
日平均気温 °C°F −0.9
(30.4)
−1
(30.2)
−0.3
(31.5)
1.6
(34.8)
3.8
(38.9)
6.6
(43.9)
9.1
(48.4)
10.3
(50.5)
8.8
(47.8)
5.6
(42.1)
1.9
(35.5)
−0.1
(31.9)
3.8
(38.8)
平均最低気温 °C°F −3.2
(26.3)
−3.1
(26.4)
−2.4
(27.6)
−1
(31)
1.7
(35.1)
4.1
(39.4)
6.8
(44.2)
7.7
(45.8)
6.3
(43.3)
3
(37.4)
−1
(31)
−2.2
(28.1)
1.4
(34.6)
最低気温記録 °C°F −15
(5)
−14
(7)
−15
(5)
−12
(10)
−9
(15)
−7
(19)
−4
(24)
−2
(28)
−7
(20)
−6
(21)
−9
(15)
−17
(2)
−17
(2)
降水量 mm (inch) 96.8
(3.81)
91.7
(3.61)
83.1
(3.27)
96.3
(3.79)
72.6
(2.86)
74.7
(2.94)
107.4
(4.23)
152.9
(6.02)
160.5
(6.32)
168.4
(6.63)
115.6
(4.55)
117.1
(4.61)
1,337.1
(52.64)
降雪量 cm (inch) 41.1
(16.2)
42.9
(16.9)
38
(15)
16.5
(6.5)
2.8
(1.1)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
1.5
(0.6)
18
(7.1)
33
(13)
193.8
(76.3)
平均降水日数 19 17 18 16 13 11 13 15 17 19 20 19 197
出典:[5]

1982年の時点で、島で木らしい木は、1943年の戦いの後に米軍兵士が島の礼拝堂に植えた木だけであったという[6]

歴史

 
アッツ島の村(1937年)

島の名はアレウト語で Atan と言う[7]。初期のロシア人たちは Остров Атту (Ostrov Attu) と記録した[8]。なお、イギリス海軍のジェームズ・クックは1785年に Atakou の名で記録している。

島にある多数の遺跡の考古学的調査によれば、先コロンブス期には2,000人から5,000人のアレウト族(ウナンガン人)が暮らしていたと推定されている[9]

カムチャッカに最も近いという立地から、アリューシャン列島の中ではロシア人によって最初に探索された島となった。文献記録によれば、1741年に探検船が遠距離からこの島を望見した[8]1742年春に、ロシアの探検家アレクセイ・チリコフ英語版がこの島を「聖テオドロスの島」と命名したのが「公式な発見」とされる[8]

1745年、ミハイル・ネヴォドチコフロシア語版が率いるプロミュシュレンニキ英語版たち(毛皮貿易に従事する、商人・猟師・船乗り・傭兵の一団。ロシア人のほかシベリア先住民たちも含まれた)が島を訪れたのが「最初の上陸」の記録である[8]。ロシア人たちは島に数年間滞在し、ラッコ猟に従事した。ロシア人はしばしば地元住民と衝突した。貿易商人たちの「最初の波」が去ったあと、ヨーロッパ人たちの船はこの島に注意を払わなくなった。

第二次世界大戦前

第二次世界大戦が始まるまで、島の住民はほとんどがアレウト族で、チチャゴフ湾英語版に面して村があった。

島で唯一の学校はインディアン事務局によって運営されており、白人女性の教師1人が派遣された[10]

第二次世界大戦

 
アッツ島の戦いの戦況図(日本軍の最期の突撃が赤)。図示されているのは島の東部で、アッツの村や、マサカー・ベイなどが示されている。

1942年6月7日、日本軍はアッツ島に抵抗を受けずに上陸し、占領した(翌日にはキスカ島も占領した)。日本軍はこの島を熱田島(あつたとう)と命名した[11]

アッツ島には45人のアレウト族の住民と、2人の白人の住民がいた。2人の白人は夫婦で、夫のチャールズ・フォスター・ジョーンズ(Charles Foster Jones, オハイオ州出身、1879年 – 1942年)は無線技士、妻のエッタ(Etta, ニュージャージー州出身、1879年 - 1965年)は教師であった[12]。チャールズ・フォスター・ジョーンズは、日本による占領直後に日本軍によって殺害され、エッタは横浜市のバンドホテルに収容された(ここにはラバウルの戦いで捕らえられたオーストラリア人捕虜も収容され、エッタはオーストラリア人とともに戦争の終わりまで収容先を移動した)[12]

アレウト族住民42人は、北海道小樽市の捕虜収容所に移送され、厳しい状況下で16人(19人とも)が死亡した。村人たちが帰国するまで、合衆国当局はかれらの置かれた状況を把握していないと言明した[13]。なお、日本軍の侵攻を受けたアメリカ合衆国はアリューシャン列島からアレウト族住民880人をアラスカ州南東部の収容所に移動したが、約75人が感染症などによって収容所で死亡した[14][15][16]

1943年5月12日、アッツ島にアメリカ軍が上陸し、アッツ島の戦いが繰り広げられた。5月29日、日本軍の最後の突撃が行われ、組織的抵抗は終了。5月30日、アメリカ軍は島の占領を宣言した。日本軍が守備隊の「玉砕」という言葉を初めて使った戦いであった。

アメリカ陸軍航空軍(USAAF)は、アレクセイポイント陸軍飛行場 (Alexai Point Army Airfieldを建設。1943年7月10日に千島列島への空襲の基地として使用した。これはドゥーリトル空襲以来の日本本土への空襲であった。この基地はその後も出撃拠点として使用された[6]

第二次世界大戦後

 
沿岸警備隊のLOLAMステーション(1997年)

戦後、小樽の捕虜収容所で生存していた村人たちは、アッツ島の村を再建維持するには十分な人数がいないとして、アリューシャン列島の他の島やアラスカ本土に送られた。合衆国政府はアッツ島南端のセオドアポイントにLORANステーションを建設することを決定した。この施設には、アメリカ沿岸警備隊の約20人が配置された。基地は1954年にカスコ・コーヴ (Casco Cove Coast Guard Stationに、1960年にマサカー・ベイ (Massacre Bay (Alaska)に移転した。

アッツ島には旅客便を飛ばす計画があり、1976年にはリーブ・アリューシャン航空がアンカレッジとの航空便を計画した[17]。アッツ島の空港はアメリカ最西端の空港でもあった。

 
北太平洋戦没者の碑(2007年7月に撮影)

1985年、第二次世界大戦の戦績とその後の軍事施設は、合衆国史跡に指定された[6][18]

1987年、米国内務省の承認を得て、日本政府はアッツ島の戦いを記念した「北太平洋戦没者の碑」を玉砕の地である雀ケ丘(英語名エンジニア・ヒル)に建てた。碑文には日本語と英語で「さきの大戦において北太平洋の諸島及び海域で戦没した人々をしのび平和への思いをこめてこの碑を建立する」との銘が刻まれた[19]

2007年7月、島で日本兵のブーツと足の骨が発見され、2008年5月23日には、さらに2人の日本兵の遺体が米国沿岸警備隊員(史跡保存チームの記録員・広報官)によって回収された[20]。埋葬地ではより多くの遺体が発見され、後に改葬する計画が立てられた[21][22][23]

2008年2月には、アメリカ空軍の退役軍人グループが、日本が建てた記念碑を撤去あるいは移転し、米国で募金して制作した記念碑を2つ(1つは島で死亡した日本兵に、1つはアメリカ軍人に)建てた。

2010年NHKスペシャル『玉砕 隠された真実』の制作にあたっては、NHKとアメリカ政府との交渉により上陸・撮影の許可が下りている。

2010年8月1日、アッツ島の米国沿岸警備隊LORANステーションが完全に運用を停止した。2010年8月27日に基地は廃止されて職員が去り、島には住民がいなくなった[3]

2012年6月7日、日本軍の侵攻70周年を記念してリーサ・マーカウスキー上院議員と米国沿岸警備隊のThomas Ostebo大将がアッツの村に記念碑を建て、日本の捕虜となって亡くなった住民と帰還できなかった生存者に捧げた[24]

人口

人口推移
人口
1880107
1890101−5.6%
193029
19404451.7%
198029
200020
2010215.0%
2017(推計)0[25]−100.0%
U.S. Decennial Census[26]

アッツ島が最初に米国の国勢調査に登場するのは1880年調査で、法人化されていないアレウト族の村 "Attoo" として登場する[27]。当時の村は、チチャゴフ湾の西側にあったと考えられる。107人の人口があり、74人のアレウト族、32人の「クレオール」(ロシア人と先住民の混血)、1人の白人が居住していた[28]。1890年の調査では "Attu" という名に変わるが[29]、その後1930年まで調査がない[30]。1940年の国勢調査[31]の2年後、村と島は日本軍の侵攻を受けることになり、以後1980年まで統計にあらわれない。

1980年の統計ではマサカー・ベイの基地が国勢調査指定地域 (CDP) に指定された[32]。1990年の統計はなく[33]、2000年の統計で CDP "Attu Naval Station" となった[34]。2010年の国勢調査は、基地閉鎖直後、住民が去る直前に行われた[35]

自然

1980年、アラスカ海洋国立野生生物保護区 (Alaska Maritime National Wildlife Refuge], 略称: AMBWR) の一部に指定されている。AMBWRは合衆国魚類野生生物局が管理している。

アッツ島はバードウォッチングにおいて、「特定の期間内に特定の地理的範囲内で可能な限り多くの鳥種を観察・聴取」できる特別な場所であった。また、北米の他の部分から物理的に遠く離れているため、大陸のどこにも見られない多くの種を見ることができる。 John Fitchen はこの島を「北米野鳥界の聖杯 (the Holy Grail of North American birding)」と表現している[36]

1998年には、Sandy Komito が29日間(5月10日 - 6月7日)に745種(のちに748種に修正)という斯界の大記録を残した[37]Big year)。バードウォッチング・ツアーでアッツ島を訪れることは可能であるが、アクセスはアダック島からの数日間のボートでの航海に限られる。

入島許可・交通

厚生労働省のサイトによれば、島にはアメリカ合衆国沿岸警備隊の施設があるため、渡航には許可が必要とされる[19]。施設の閉鎖(2010年)後も、2015年の読売新聞報道(日本の戦死者遺族の訪問関連記事)によれば、厳しい上陸規制があるという[2]。2018年の米国 The World 誌の報道(元島民子孫の訪問関連記事)でも入島許可を得るための手続きが非常に煩瑣だと記されている[38]

2018年の米国 The World 誌記事によれば「島を訪れる唯一の方法はボートである」とされる[38]。2019年の読売新聞記事によれば、島内に存在する飛行場の滑走路は、老朽化が進み大型機の着陸は不可能とされている。重機を運び込むことも難しく補修計画は立てられていない[39]

2013年に行われた日本の戦死者遺族による訪問記録(日本の戦死者遺族の訪問関連記事)によれば、入島には合衆国魚類野生生物局の許可が必要であり、民間セスナ機をチャーターして島に入っている[40](なお厚生労働省は「北太平洋戦没者の碑」の清掃・巡回等を魚類野生生物局に委託している[19])。元島民は魚類野生生物局の調査船 R/V Tiglax に便乗する機会を提供されている[38]

脚注

  1. ^ 鶴見英策. “アッツ島”. コトバンク. 日本大百科全書(ニッポニカ). 2019年6月25日閲覧。
  2. ^ a b アッツ島迫る「玉砕」…米軍上陸直前の写真残る 読売新聞 2015年7月11日(土)20時48分配信
  3. ^ a b “Alaska Coast Guard says goodbye to its last LORAN station”. KUCB News (Unalaska Community Broadcasting). (August 27, 2010). オリジナルのJune 25, 2017時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20170625091725/http://archive.kucb.org/news/article/alaska-coast-guard-says-goodbye-to-its-last-loran-station//  (archived June 25, 2017)
  4. ^ 矢ヶ崎典隆. “アッツ(島)”. 世界大百科事典 第2版. 2020年8月5日閲覧。
  5. ^ ATTU, AK (500452)”. Western Regional Climate Center. November 18, 2015閲覧。
  6. ^ a b c Author unavailable (PDF). National Register of Historic Places Inventory-Nomination: Attu Battlefield and U.S. Army and Navy Airfields on Attu (partial scanned copy). National Park Service. http://focus.nps.gov/pdfhost/docs/NHLS/Text/85002729.pdf June 22, 2009閲覧。  and Accompanying photos from 1943, 1982, and 1983. (2.58 MB)
  7. ^ Bergsland, Knut (1994). Aleut Dictionary. Fairbanks: Alaska Native Language Center. ISBN 1-5550-0047-9 
  8. ^ a b c d "Attu Island". Geographic Names Information System. U.S. Geological Survey. 2020-8-5閲覧 {{cite web}}: |accessdate=の日付が不正です。 (説明)
  9. ^ Corbett, Debra G. et al. (2008). “Aleut Hunters, Sea Otters, and Sea Cows: THREE THOUSAND YEARS OF INTERACTIONS IN THE WESTERN ALEUTIAN ISLANDS, ALASKA”. In Rick, Torben C.. Human Impacts on Ancient Marine Ecosystems: A Global Perspective. University of California Press. ISBN 0-5202-5343-4 
  10. ^ "Attu Before the War." National Park Service. Retrieved on March 12, 2017. "The BIA school had a white teacher and her husband."
  11. ^ アッツ‐とう ‥タウ【アッツ島】”. コトバンク. 精選版 日本国語大辞典. 2019年6月25日閲覧。
  12. ^ a b Breu, Mary (2009). Last Letters from Attu: The True Story of Etta Jones, Alaska Pioneer and Japanese POW. Alaska Northwest Books. ISBN 0-8824-0810-0 
  13. ^ “Attu Mystery: What Happened to 45 Indians?”. Chicago Tribune: p. 13. (1943年8月8日). http://archives.chicagotribune.com/1943/08/08/page/13/article/attu-mystery-what-happened-to-45-indians Page view
  14. ^ Ryan Madden, "'The Government's Industry': Alaska Natives and Pribilof Sealing during World War II." Pacific Northwest Quarterly 91.4 (2000): 202–209. in jstor
  15. ^ Evacuation and Internment, 1942–1945 – Aleutian World War II National Historic Area (U.S. National Park Service)”. nps.gov. Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
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関連項目

外部リンク