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「マリア・マグダレーナ・フォン・エスターライヒ (1689-1743)」の版間の差分

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{{基礎情報 皇族・貴族
[[File:Archduchess Maria Magdalena of Austria 1689 1743.jpg|thumb|オーストリア大公女マリア・マグダレーナ]]
| 人名 = マリア・マグダレーナ・フォン・エスターライヒ
| 各国語表記 = Maria Magdalena von Österreich
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| 画像 = Archduchess Maria Magdalena of Austria 1689 1743.jpg
| 画像説明 =
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| 出生日 = [[1689年]][[3月26日]]
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| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1689|3|26|1743|5|1}}
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'''マリア・マグダレーナ・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ'''('''Maria Magdalena Josefa von Österreich''', [[1689年]][[3月26日]] [[ウィーン]] - [[1743年]][[5月1日]] ウィーン)は、[[ハプスブルク君主国|オーストリア大公家]]の[[オーストリア大公|大公女(Erzherzogin)]]。[[神聖ローマ皇帝]][[レオポルト1世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト1世]]とその3番目の妻で[[ライン宮中伯|プファルツ選帝侯]][[フィリップ・ヴィルヘルム (プファルツ選帝侯)|フィリップ・ヴィルヘルム]]の娘である[[エレオノーレ・マグダレーネ・フォン・プファルツ=ノイブルク|エレオノーレ・マグダレーネ]]の間の第9子、六女。
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== 生涯 ==
終生独身を通し、その生涯に関することで伝わっていることはほとんど無い。姉の[[ポルトガル]]王妃[[マリア・アンナ・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ (1683-1754)|マリア・アンナ]]は妹を夫[[ジョアン5世 (ポルトガル王)|ジョアン5世]]の弟であるべージャ公[[フランシスコ・シヴィエル・デ・ブラガンサ|フランシスコ]]と結婚させようとしたが、この縁談は早い段階で立ち消えとなった。姪の皇后[[マリア・テレジア]]とは仲が良かったという。1743年に[[肺炎]]のため59歳で亡くなり、遺骸は[[カプツィーナー納骨堂]]に埋葬された。
終生独身を通し、その生涯に関することで伝わっていることはほとんど無い。姉の[[ポルトガル]]王妃[[マリア・アンナ・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ (1683-1754)|マリア・アンナ]]は妹を夫[[ジョアン5世 (ポルトガル王)|ジョアン5世]]の弟ージャ公[[フランシスコ (ベージ公)|フランシスコ]]と結婚させようとしたが、この縁談は早い段階で立ち消えとなった。姪の皇后[[マリア・テレジア]]とは仲が良かったという。1743年に[[肺炎]]のため54歳で亡くなり、遺骸は[[カプツィーナー納骨堂]]に埋葬された。


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*Constantin von Wurzbach: Habsburg, Maria Magdalena. In: ''Biographisches Lexikon des Kaiserthums Oesterreich.'' Band 7. Verlag L. C. Zamarski, Wien 1861, S. 58.
*Constantin von Wurzbach: Habsburg, Maria Magdalena. In: ''Biographisches Lexikon des Kaiserthums Oesterreich.'' Band 7. Verlag L. C. Zamarski, Wien 1861, S. 58.


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2022年3月15日 (火) 06:27時点における最新版

マリア・マグダレーナ・フォン・エスターライヒ
Maria Magdalena von Österreich

出生 1689年3月26日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
オーストリアの旗 オーストリア大公国ウィーンホーフブルク宮殿
死去 (1743-05-01) 1743年5月1日(54歳没)
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
オーストリアの旗 オーストリア大公国ウィーンホーフブルク宮殿
埋葬 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
オーストリアの旗 オーストリア大公国ウィーンカプツィーナー納骨堂
家名 ハプスブルク家
父親 神聖ローマ皇帝レオポルト1世
母親 エレオノーレ・マグダレーネ・フォン・プファルツ=ノイブルク
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マリア・マグダレーナ・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒMaria Magdalena Josefa von Österreich, 1689年3月26日 ウィーン - 1743年5月1日 ウィーン)は、オーストリア大公家大公女(Erzherzogin)神聖ローマ皇帝レオポルト1世とその3番目の妻でプファルツ選帝侯フィリップ・ヴィルヘルムの娘であるエレオノーレ・マグダレーネの間の第9子、六女。

生涯

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終生独身を通し、その生涯に関することで伝わっていることはほとんど無い。姉のポルトガル王妃マリア・アンナは妹を夫ジョアン5世の弟ベージャ公フランシスコと結婚させようとしたが、この縁談は早い段階で立ち消えとなった。姪の皇后マリア・テレジアとは仲が良かったという。1743年に肺炎のため54歳で亡くなり、遺骸はカプツィーナー納骨堂に埋葬された。

参考文献

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  • Constantin von Wurzbach: Habsburg, Maria Magdalena. In: Biographisches Lexikon des Kaiserthums Oesterreich. Band 7. Verlag L. C. Zamarski, Wien 1861, S. 58.