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'''安原 貞室'''(やすはら ていしつ:[[1610年]]([[慶長]]15年) - [[1673年]][[3月25日]]([[延宝]]元年[[2月7日 (旧暦)|2月7日]]))は、[[江戸時代]]前期の[[俳句|俳人]]で、貞門七俳人の一人。名は正明(まさあきら)、通称は鎰屋(かぎや)彦左衛門、別号は腐俳子(ふはいし)・一嚢軒(いちのうけん)<ref>{{Cite book|和書|author=竹内玄玄一|year=1987|title=俳家奇人談・続俳家奇人談|publisher=岩波文庫|page=39}}</ref>。[[京都]]の紙商。 |
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[[1625年]](寛永2年)、[[松永貞徳]]に師事して[[俳諧]]を学び、42歳で[[点業]]を許された。[[貞門派]]では[[松江重頼]]と双璧をなす。貞室の「俳諧之註」を重頼が非難したが、重頼の「[[毛吹草]]」を貞室が「氷室守」で論破している<ref>{{Cite book|和書|author=沼波武夫|year=1914|title=俳論史|publisher=菁莪堂書店|page=19}}</ref>。自分だけが貞門の正統派でその後継者であると主張するなど、同門、他門としばしば衝突した<ref>{{Cite book|和書|author=ドナルド・キーン|year=2011|title=日本文学史 近世篇一|publisher=中公文庫|page=70}}</ref>。門下としては[[榎並貞因]]など。 |
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2022年6月4日 (土) 13:18時点における最新版
安原 貞室(やすはら ていしつ:1610年(慶長15年) - 1673年3月25日(延宝元年2月7日))は、江戸時代前期の俳人で、貞門七俳人の一人。名は正明(まさあきら)、通称は鎰屋(かぎや)彦左衛門、別号は腐俳子(ふはいし)・一嚢軒(いちのうけん)[1]。京都の紙商。
生涯
[編集]1625年(寛永2年)、松永貞徳に師事して俳諧を学び、42歳で点業を許された。貞門派では松江重頼と双璧をなす。貞室の「俳諧之註」を重頼が非難したが、重頼の「毛吹草」を貞室が「氷室守」で論破している[2]。自分だけが貞門の正統派でその後継者であると主張するなど、同門、他門としばしば衝突した[3]。門下としては榎並貞因など。
作風は、貞門派の域を出たものもあり[4]、蕉門から高い評価を受けている。句集は「玉海集」。