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== 来歴・人物 == |
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[[大日本帝国海軍|海軍]][[軍人]]だった父親の赴任先、[[京都]]の[[舞鶴市|舞鶴]]に生まれ<ref name=sankei >[[週刊サンケイ]]、1981年1月29日号、pp.162-163</ref>、父が退役後、[[岡山県|岡山]]の[[三井物産]]船舶部(後の[[商船三井]])に入社したため岡山で育つ<ref name=sankei/>。岡山市立内山下小学校から旧制岡山一中(後の[[岡山県立岡山朝日高等学校]])に進むが、父の転勤で旧制第二神戸中学校(のち[[兵庫県立兵庫高等学校]])に転校<ref name=sankei/>。[[京都]]の[[第三高等学校 (旧制)|旧制第三高等学校]]、[[1935年]][[京都大学大学院法学研究科・法学部|京都帝国大学法学部]]を[[卒業]]、住友銀行(のち[[三井住友銀行]])に入行した。[[熊本県]]出身とするプロフィールが多いが熊本で育ったことはない<ref name=sankei />。 |
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[[1960年]][[取締役]]、[[1971年]]に副頭取、[[1977年]]に[[頭取]]、[[1983年]]に会長就任。当時頭取の[[伊部恭之助]]とともに経営危機に陥った[[安宅産業]]を[[伊藤忠商事]]に救済合併させたほか、[[マツダ]]、[[アサヒビール]]などの企業再建を手がけた。住友銀行を関西の銀行から、全国展開する上位行としての地位を築き、頭取就任から4年で[[都市銀行]]で収益トップの座となった。会長時代には[[平和相互銀行]]を合併、これに伴う[[不良債権]]の償却で再び失った1位の座を、わずか2年後に奪回するなど高収益体質を確立した。 |
[[1960年]][[取締役]]、[[1971年]]に副頭取、[[1977年]]に[[頭取]]、[[1983年]]に会長就任。当時頭取の[[伊部恭之助]]とともに経営危機に陥った[[安宅産業]]を[[伊藤忠商事]]に救済合併させたほか、[[マツダ]]、[[アサヒビール]]などの企業再建を手がけた。住友銀行を関西の銀行から、全国展開する上位行としての地位を築き、頭取就任から4年で[[都市銀行]]で収益トップの座となった。会長時代には[[平和相互銀行]]を合併、これに伴う[[不良債権]]の償却で再び失った1位の座を、わずか2年後に奪回するなど高収益体質を確立した。 |
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[[1982年]]に米金融専門誌の「バンカー・オブ・ザ・イヤー」に選ばれ、[[1984年]]には[[瑞宝章|勲一等瑞宝章]]を受けた。[[1986年]]から[[1989年]]まで[[日本放送協会|NHK]]経営委員長を務めた。1986年5月から1990年11月まで経団連副会長。 |
[[1982年]]に米金融専門誌の「バンカー・オブ・ザ・イヤー」に選ばれ、[[1984年]]には[[瑞宝章|勲一等瑞宝章]]を受けた。[[1986年]]から[[1989年]]まで[[日本放送協会|NHK]]経営委員長を務めた。1986年5月から1990年11月まで[[経団連]]副会長。 |
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頭取時代にガンで死期迫る支店長を役員に指名した温情の伝説がある一方、「向こう傷を恐れるな」との言葉通りの強引な収益至上主義で知られた。 |
頭取時代にガンで死期迫る支店長を役員に指名した温情の伝説がある一方、「向こう傷を恐れるな」との言葉通りの強引な収益至上主義で知られた。 |
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特に会長時代は[[イトマン事件]]を引き起こし、[[イトマン]]を経由して[[山口組]]の |
特に会長時代は[[イトマン事件]]を引き起こし、[[イトマン]]を経由して[[山口組]]の周辺者である[[伊藤寿永光]]への不正融資を行うなど、住友銀行と暴力団の関係を近付けてしまった。 |
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[[1990年]][[10月15日]]には横浜市の住友銀行[[青葉台 (横浜市)|青葉台]]支店長が、[[光進事件|蛇の目ミシン工業事件]]で注目されていた仕手集団の光進代表に対し客を紹介し[[株式|株]]取引の仲介をしたことで[[出資の受入れ、預り金及び金利等の取締りに関する法律|出資法]]違反([[浮貸し]])で逮捕されたことをきっかけに、これまでの住友銀行と住友グループの暗部がマスコミの注目の的となる。 |
[[1990年]][[10月15日]]には横浜市の住友銀行[[青葉台 (横浜市)|青葉台]]支店長が、[[光進事件|蛇の目ミシン工業事件]]で注目されていた仕手集団の光進代表に対し客を紹介し[[株式|株]]取引の仲介をしたことで[[出資の受入れ、預り金及び金利等の取締りに関する法律|出資法]]違反([[浮貸し]])で逮捕されたことをきっかけに、これまでの住友銀行と住友グループの暗部がマスコミの注目の的となる。 |
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老舗商社の消滅をもたらした[[イトマン事件]](この事件では、磯田の長女もイトマンとの不明朗な絵画取引で利権を得ていた)では批判を浴びたが「イトマンのことは墓場まで持っていく」と沈黙を守り、同年[[10月17日]]、早くも引責辞任を発表した。しかしこの一件は沈静化せず、住友銀行全体の不正融資や暴力団との関係、不良債権の実態が深刻なことが報道されていくことになる。 |
老舗商社の消滅をもたらした[[イトマン事件]](この事件では、磯田の長女もイトマンとの不明朗な絵画取引で利権を得ていた)では批判を浴びたが「イトマンのことは墓場まで持っていく」と沈黙を守り、同年[[10月17日]]、早くも引責辞任を発表した。しかしこの一件は沈静化せず、住友銀行全体の不正融資や暴力団との関係、不良債権の実態が深刻なことが報道されていくことになる。 |
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旧制第三高等学校、京大時代から[[ラグビー]]の名手として知られ、[[1936年]]には来日したニュージーランド学生選抜と[[ラグビー日本代表]]の一員として対戦 |
旧制第三高等学校、京大時代から[[ラグビーユニオン|ラグビー]]の名手として知られ、[[1936年]]には来日したニュージーランド学生選抜と[[ラグビー日本代表]]の一員として対戦(この試合は[[日本ラグビーフットボール協会|日本ラグビー協会]]によりキャップ認定試合=[[テストマッチ]]として認められている)俊足のバックスとして活躍した。1990年から[[1992年]]まで[[日本ラグビーフットボール協会]]会長。1993年12月3日、80歳にて死去。 |
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==脚注== |
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== 関連人物== |
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* [[京都大学の人物一覧]] |
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2022年8月7日 (日) 06:21時点における最新版
いそだ いちろう 磯田 一郎 | |
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生誕 |
1913年1月12日 京都府舞鶴市 |
死没 | 1993年12月3日(80歳没) |
出身校 | 京都帝国大学法学部 |
職業 | 銀行家 |
磯田 一郎(いそだ いちろう、1913年1月12日 - 1993年12月3日)は、元ラグビー日本代表選手、元住友銀行頭取・会長、経団連副会長。日本を代表する銀行家。「住友銀行中興の祖」、「住友銀行の天皇」と称された。
来歴・人物
[編集]海軍軍人だった父親の赴任先、京都の舞鶴に生まれ[1]、父が退役後、岡山の三井物産船舶部(後の商船三井)に入社したため岡山で育つ[1]。岡山市立内山下小学校から旧制岡山一中(後の岡山県立岡山朝日高等学校)に進むが、父の転勤で旧制第二神戸中学校(のち兵庫県立兵庫高等学校)に転校[1]。京都の旧制第三高等学校、1935年京都帝国大学法学部を卒業、住友銀行(のち三井住友銀行)に入行した。熊本県出身とするプロフィールが多いが熊本で育ったことはない[1]。
1960年取締役、1971年に副頭取、1977年に頭取、1983年に会長就任。当時頭取の伊部恭之助とともに経営危機に陥った安宅産業を伊藤忠商事に救済合併させたほか、マツダ、アサヒビールなどの企業再建を手がけた。住友銀行を関西の銀行から、全国展開する上位行としての地位を築き、頭取就任から4年で都市銀行で収益トップの座となった。会長時代には平和相互銀行を合併、これに伴う不良債権の償却で再び失った1位の座を、わずか2年後に奪回するなど高収益体質を確立した。
1982年に米金融専門誌の「バンカー・オブ・ザ・イヤー」に選ばれ、1984年には勲一等瑞宝章を受けた。1986年から1989年までNHK経営委員長を務めた。1986年5月から1990年11月まで経団連副会長。
頭取時代にガンで死期迫る支店長を役員に指名した温情の伝説がある一方、「向こう傷を恐れるな」との言葉通りの強引な収益至上主義で知られた。
特に会長時代はイトマン事件を引き起こし、イトマンを経由して山口組の周辺者である伊藤寿永光への不正融資を行うなど、住友銀行と暴力団の関係を近付けてしまった。
1990年10月15日には横浜市の住友銀行青葉台支店長が、蛇の目ミシン工業事件で注目されていた仕手集団の光進代表に対し客を紹介し株取引の仲介をしたことで出資法違反(浮貸し)で逮捕されたことをきっかけに、これまでの住友銀行と住友グループの暗部がマスコミの注目の的となる。
老舗商社の消滅をもたらしたイトマン事件(この事件では、磯田の長女もイトマンとの不明朗な絵画取引で利権を得ていた)では批判を浴びたが「イトマンのことは墓場まで持っていく」と沈黙を守り、同年10月17日、早くも引責辞任を発表した。しかしこの一件は沈静化せず、住友銀行全体の不正融資や暴力団との関係、不良債権の実態が深刻なことが報道されていくことになる。
旧制第三高等学校、京大時代からラグビーの名手として知られ、1936年には来日したニュージーランド学生選抜とラグビー日本代表の一員として対戦(この試合は日本ラグビー協会によりキャップ認定試合=テストマッチとして認められている)俊足のバックスとして活躍した。1990年から1992年まで日本ラグビーフットボール協会会長。1993年12月3日、80歳にて死去。
脚注
[編集]関連人物
[編集]関連項目
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