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「ハインリヒ・ツー・メクレンブルク」の版間の差分

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[[画像:Prince Henry of Holland.jpg|thumb|メクレンブルク公ハインリヒ/オランダ王配ヘンドリック]]
{{基礎情報 君主の正配
'''ハインリヒ'''・ツー・メクレンブルク(<span lang="de" xml:lang="de">'''Heinrich''' zu Mecklenburg</span>, [[1876年]][[4月19日]] - [[1934年]][[7月3日]])は、[[メクレンブルク=シュヴェリーン大公国]]の王族。メクレンブルク公。メクレンブルク=シュヴェリーン大公[[フリードリヒ・フランツ2世 (メクレンブルク=シュヴェリーン大公)|フリードリヒ・フランツ2世]]の八男で、後に[[オランダ]]女王[[ィルヘルミナ (オランダ女王)|ィルヘルミナ]]の[[王配]]となり[[オランダ王子]]に叙された。全名は[[ドイツ語]]で'''ハインリヒ・ヴラディミル・アルブレヒト・エルンスト'''(<span lang="de" xml:lang="de">'''''Heinrich'' Wladimir Albrecht Ernst'''</span>)、[[オランダ語]]'''ヘンドリック・ヴラディミルアルレヒト・エンスト'''(<span lang="nl" xml:lang="nl">'''''Hendrik'' Wladimir Albrecht Ernst'''</span>)。
| 人名 = ヘンドリック
| 各国語表記 = {{Lang|nl|Hendrik}}
| 正配称号 = [[オランダ王妃・王配一覧|オランダ王配]]
| 画像 = Prince Henry of Holland.jpg
| 画像サイズ =
| 画像説明 = オランダ王配ヘンドリック(1912年)
| 在位 = [[1901年]][[2月7日]] - [[1934年]][[7月3日]]
| 別称号 = メクレンブルク公
| 全名 = {{Lang-de-short|Heinrich Wladimir Albrecht Ernst}}<br />ハインリヒ・ヴラディミル・アルブレヒト・エルンスト
| 出生日 = {{生年月日と年齢|1876|4|19|no}}
| 生地 = {{DEU1871}}<br />[[ファイル:Flagge Großherzogtümer Mecklenburg.svg|border|25x20px]] [[メクレンブルク=シュヴェリーン|メクレンブルク=シュヴェリーン大公国]]、[[シュヴェリーン]]
| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1876|4|19|1934|7|3}}
| 没地 = {{NLD}}、[[デン・ハーグ]]
| 埋葬日 = {{NLD}}、[[デルフト]]、{{仮リンク|新教会 (デルフト)|label=新教会|en|Nieuwe Kerk (Delft)}}
| 埋葬地 =
| 配偶者1 = [[ウィルヘルミナ (オランダ女王)|ウィルヘルミナ]]
| 子女 = [[ユリアナ (オランダ女王)|ユリアナ]]
| 家名 = [[メクレンブルク=シュヴェリーン家]]
| 父親 = [[フリードリヒ・フランツ2世 (メクレンブルク=シュヴェリーン大公)|フリードリヒ・フランツ2世]]
| 母親 = [[マリー・フォン・シュヴァルツブルク=ルードルシュタット]]
| 宗教 =
| サイン =
}}
'''ハインリヒ・ツー・メクレンブルク'''({{Lang-de|Heinrich zu Mecklenburg}}, [[1876年]][[4月19日]] - [[1934年]][[7月3日]])は、[[メクレンブルク=シュヴェリーン大公国]]の大公家成員。メクレンブルク公。メクレンブルク=シュヴェリーン大公[[フリードリヒ・フランツ2世 (メクレンブルク=シュヴェリーン大公)|フリードリヒ・フランツ2世]]の八男で、[[オランダ]]女王[[ィルヘルミナ (オランダ女王)|ィルヘルミナ]]の[[王配]]となり[[プリンス|オランダ王子]]に叙された。[[オランダ語]]名は'''ヘンドリック・ファンメクレンブル'''({{Lang|nl|Hendrik van Mecklenburg}})。


== 生涯 ==
[[1876年]][[4月19日]]、フリードリヒ・フランツ2世とその人目の妃であった[[シュヴァルツブルク=ルードルシュタット侯国|シュヴァルツブルク=ルードルシュタット]]侯子[[カール・ギュンター・フォン・シュヴァルツブルク=ルードルシュタット|カール・ギュンター]]の[[マリー・フォン・シュヴァルツブルク=ルードルシュタット|マリー]](1850年 - 1922年)の間に第子(末子)として[[シュヴェリーン]]で生まれた。異母兄に[[フリードリヒ・フランツ3世 (メクレンブルク=シュヴェリーン大公)|フリードリヒ・フランツ3世]]がいる。
[[1876年]][[4月19日]]、フリードリヒ・フランツ2世とその3人目の妃であった[[シュヴァルツブルク=ルードルシュタット侯国|シュヴァルツブルク=ルードルシュタット]]侯子[[カール・ギュンター・フォン・シュヴァルツブルク=ルードルシュタット|カール・ギュンター]]の長女[[マリー・フォン・シュヴァルツブルク=ルードルシュタット|マリー]]の間に第4子(末子)として[[シュヴェリーン]]で生まれた。異母兄に[[フリードリヒ・フランツ3世 (メクレンブルク=シュヴェリーン大公)|フリードリヒ・フランツ3世]]大公がいる。


[[ドレスデン]]の[[ギムナジウム]]で教育を受けた。[[ギリシャ]]や[[イギリス領インド帝国]]、[[セイロン島]]などを旅行してから[[ドイツ]]へ戻り、[[プロイセン王国]]陸軍に入隊した。その後[[ポツダム]]の近衛猟兵連隊に少尉として配属されしばらく軍歴を積んだ。
[[ドレスデン]]の[[ギムナジウム]]で教育を受けた。[[ギリシャ王国|ギリシャ]]や[[イギリス領インド帝国]]、[[セイロン島]]などを旅行してからドイツへ戻り、[[プロイセン王国]]陸軍に入隊した。その後[[ポツダム]]の近衛猟兵連隊に少尉として配属されしばらく軍歴を積んだ。


[[1900年]][[10月16日]]にオランダ女王[[ィルヘルミナ (オランダ女王)|ィルヘルミナ]]との婚約が成立し、[[1901年]][[2月7日]]に[[デン・ハーグ|ハーグ]]で結婚した。またこの前日である[[2月6日]]付で、は[[オランダ王子]](<span lang="nl" xml:lang="nl">Prins der Nederlanden</span>)の称号と殿下(<span lang="nl" xml:lang="nl">Koninklijke Hoogheid</span>)の敬称を与えられた。なお[[メクレンブルク家]]側は彼に対して[[オラニエ公]]の称号を与えるよう求めたが、これは受け容れられなかった。
[[1900年]][[10月16日]]にオランダ女王[[ィルヘルミナ (オランダ女王)|ィルヘルミナ]]との婚約が成立し、[[1901年]][[2月7日]]に[[デン・ハーグ|ハーグ]]で結婚した。またこの前日である[[2月6日]]付で、ハインリヒは[[プリンス|オランダ王子]]({{Lang|nl|Prins der Nederlanden}})の称号と殿下({{Lang|nl|Koninklijke Hoogheid}})の敬称を与えられた。なおメクレンブルク家側は彼に対して[[オラニエ=ナッサウ家|オラニエ公]]の称号を与えるよう求めたが、これは受け容れられなかった。


[[1901年]]に[[海軍少将]](<span lang="nl" xml:lang="nl">Schout-bij-nacht</span>)および[[陸軍少将]](<span lang="nl" xml:lang="nl">Generaal-majoor</span>)に、[[1904年]]には[[海軍中将]](<span lang="nl" xml:lang="nl">Viceadmiraal</span>)および[[陸軍中将]]<span lang="nl" xml:lang="nl">Luitenant-Generaal</span>)に任じられた。または[[枢密院 (オランダ)|枢密院]](<span lang="nl" xml:lang="nl">Raad van State</span>)の顧問官でもあったが、これらの地位を政治的に使うことはなかった。
[[1901年]]に[[オランダ海軍|海軍]][[少将]]({{Lang|nl|Schout-bij-nacht}})および[[オランダ陸軍|陸軍]]少将{{Lang|nl|Generaal-majoor}})に、[[1904年]]には海軍[[中将]]({{Lang|nl|Viceadmiraal}})および陸軍中将({{Lang|nl|Luitenant-Generaal}})に任じられた。またヘンドリックは[[枢密院 (オランダ)|枢密院]]({{Lang|nl|Raad van State}})の顧問官でもあったが、これらの地位を政治的に使うことはなかった。


[[1934年]][[7月3日]]、心臓発作により[[デン・ハーグ|ハーグ]]で去した。墓所は[[デルフト]]の[[新教会 (デルフト)|新教会]]にある。
[[1934年]][[7月3日]]、心臓発作により[[デン・ハーグ|ハーグ]]で去した。墓所は[[デルフト]]の{{仮リンク|新教会 (デルフト)|label=新教会|en|Nieuwe Kerk (Delft)}}にある。


== 子女 ==
== 子女 ==
妻のィルヘルミナは何度か妊娠しているが、無事に生まれたのは一女だけであった。
妻のィルヘルミナは何度か妊娠しているが、無事に生まれたのは一女だけであった。
* [[ユリアナ (オランダ女王)|'''ユリアナ'''・ルイーゼ・エンマ・マリア・ィルヘルミナ]] ([[1909年]] - [[2004年]]、オランダ女王)
* [[ユリアナ (オランダ女王)|'''ユリアナ'''・ルイーゼ・エンマ・マリア・ィルヘルミナ]] ([[1909年]] - [[2004年]]、オランダ女王)
また、別の女性との間に[[庶子]]をもうけていたことが[[1979年]]になって明らかになった。
また、別の女性との間に[[庶子]]をもうけていたことが[[1979年]]になって明らかになった。


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ヘンドリック
Hendrik
オランダ王配
オランダ王配ヘンドリック(1912年)
在位 1901年2月7日 - 1934年7月3日
別称号 メクレンブルク公

全名 : Heinrich Wladimir Albrecht Ernst
ハインリヒ・ヴラディミル・アルブレヒト・エルンスト
出生 (1876-04-19) 1876年4月19日
ドイツの旗 ドイツ帝国
メクレンブルク=シュヴェリーン大公国シュヴェリーン
死去 (1934-07-03) 1934年7月3日(58歳没)
オランダの旗 オランダデン・ハーグ
埋葬 オランダの旗 オランダデルフト新教会英語版
配偶者 ウィルヘルミナ
子女 ユリアナ
家名 メクレンブルク=シュヴェリーン家
父親 フリードリヒ・フランツ2世
母親 マリー・フォン・シュヴァルツブルク=ルードルシュタット
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ハインリヒ・ツー・メクレンブルクドイツ語: Heinrich zu Mecklenburg, 1876年4月19日 - 1934年7月3日)は、メクレンブルク=シュヴェリーン大公国の大公家成員。メクレンブルク公。メクレンブルク=シュヴェリーン大公フリードリヒ・フランツ2世の八男で、オランダ女王ウィルヘルミナ王配となりオランダ王子に叙された。オランダ語名はヘンドリック・ファン・メクレンブルフHendrik van Mecklenburg)。

生涯

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1876年4月19日、フリードリヒ・フランツ2世とその3人目の妃であったシュヴァルツブルク=ルードルシュタット侯子カール・ギュンターの長女マリーの間に第4子(末子)としてシュヴェリーンで生まれた。異母兄にフリードリヒ・フランツ3世大公がいる。

ドレスデンギムナジウムで教育を受けた。ギリシャイギリス領インド帝国セイロン島などを旅行してからドイツへ戻り、プロイセン王国陸軍に入隊した。その後ポツダムの近衛猟兵連隊に少尉として配属され、しばらく軍歴を積んだ。

1900年10月16日にオランダ女王ウィルヘルミナとの婚約が成立し、1901年2月7日ハーグで結婚した。またこの前日である2月6日付で、ハインリヒはオランダ王子Prins der Nederlanden)の称号と殿下(Koninklijke Hoogheid)の敬称を与えられた。なお、メクレンブルク家側は彼に対してオラニエ公の称号を与えるよう求めたが、これは受け容れられなかった。

1901年海軍少将Schout-bij-nacht)および陸軍少将(Generaal-majoor)に、1904年には海軍中将Viceadmiraal)および陸軍中将(Luitenant-Generaal)に任じられた。またヘンドリックは枢密院Raad van State)の顧問官でもあったが、これらの地位を政治的に使うことはなかった。

1934年7月3日、心臓発作によりハーグで薨去した。墓所はデルフト新教会英語版にある。

子女

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妻のウィルヘルミナは何度か妊娠しているが、無事に生まれたのは一女だけであった。

また、別の女性との間に庶子をもうけていたことが1979年になって明らかになった。