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「成仏」の版間の差分

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[[仏教]]の開祖[[釈迦]](しゃか)は、ブッダガヤーの菩提樹の下で明(あけ)の明星を見て[[仏陀]](ぶっだ、Buddha([[サンスクリット|sanskrit]]))すなわち'''覚(さと)れる者'''となった。'''さとり'''をさまたげる[[煩悩]](ぼんのう)を断ち、[[輪廻]](りんね, Samsara(sanskrit))の苦から解き放たれる意味で[[解脱]](げだつ)といい、'''仏陀'''(覚れる者)に成るという意味で'''成仏'''という。
[[仏教]]の開祖[[釈迦]](しゃか)は、ブッダガヤーの菩提樹の下で明(あけ)の明星を見て[[仏陀]](ぶっだ、Buddha([[サンスクリット|sanskrit]]))すなわち'''覚(さと)れる者'''となった。'''さとり'''をさまたげる[[煩悩]](ぼんのう)を断ち、[[輪廻]](りんね, Samsara(sanskrit))の苦から解き放たれる意味で[[解脱]](げだつ)といい、'''仏陀'''(覚れる者)に成るという意味で'''成仏'''という。


'''釈迦'''が入滅した後、追慕から仏弟子たち瞑想中で再び逢って教えを受けようと'''三昧'''(さんまい、Samādhi(sanskrit))や'''禅定'''(禅那、ぜんな、Dhyāna(sanskrit))とよ修行につとめた。
仏弟子たちは、'''釈迦'''と同様の解脱を得るため、釈迦より指導を受け、あるいは釈迦が入滅した後はの教えに随い。釈迦の説いた教義学び、教団の戒律を守り、'''三昧'''(さんまい、Samādhi(sanskrit))や'''禅定'''(禅那、ぜんな、Dhyāna(sanskrit))とよばれる瞑想を行ない、修行につとめた。


その結果、釈迦と同様に輪廻からの解脱を得る境地(涅槃)に達した人物を[[阿羅漢]]と呼ぶ。これも、広い意味では成仏であるが、教祖である釈迦に対する尊崇の念から、阿羅漢に成ることを、成仏するとは普通は呼称しない。
かくしてスリランカ、ミャンマー、タイなどに伝わる南方の[[上座部仏教]](tera‐vaada ([[パーリ語|pali]]))では、[[涅槃]](ねはん、般涅槃)を求め[[解脱]]を目標とした


あくまで、仏陀は、輪廻を繰り返す中で、数々の修行を積み、善行を行なって、ついに無師独悟した偉大なる釈迦、一人であるからだ。(オリジナルな悟りに達したのは釈迦のみ。阿羅漢に達した弟子はそのコピーにすぎない)
他方、初期[[大乗仏教]](Mahā-yāna(sanskrit))では、菩薩の修行である[[六波羅蜜]]、[[三昧]]、[[陀羅尼]](だらに、Dhāranī(sanskrit))が重んじられていたが、後期大乗仏教では、それらの修行の階程をふむことを歴劫修行(りゃっこうしゅぎょう)と否定し、[[信]]によってただちに煩悩の結縛から涅槃に昇化する[[即身成仏]](そくしんじようぶつ)の思想も生まれた。

スリランカ、ミャンマー、タイなどに伝わる南方の[[上座部仏教]](tera‐vaada ([[パーリ語|pali]]))では、[[涅槃]](ねはん、般涅槃)を求め[[解脱]]し、阿羅漢と成ること最終目標とする

しかし、釈迦の教えは、仏教徒にとっては普遍的な宇宙の真理でもあるから、時代を経るにつれて、釈迦の過去にも、同様の真理に到達した[[過去仏]]がいたと考えられ、信仰されるようになった。また、釈迦入滅後56億7000万年後には、[[未来仏]]である[[弥勒]]如来が出現するとも信じられるようになった。

初期[[大乗仏教]](Mahā-yāna(sanskrit))が成立すると、現世で直接に阿羅漢果を得ることが難しい在家信者であっても、輪廻を繰り返す中で、いつかは仏陀と同様のオリジナルな悟りに到達できる(成仏できる)のではないかと考えられ始めた。

成仏をめざして修行する者を[[菩薩]]とよぶ。釈迦が前世に菩薩であった時のように 絶ゆまぬ利他行に努めることで、自分もはるかに遠い未来(だいたい三大[[阿僧祇]](10<sup>56*3</sup>)劫も先といわれている)に必ず成仏できる。そう信じて菩薩の修行である六波羅蜜を日々行じていくのが、大乗仏教の初期の教えであった。

さらに後期大乗仏教になると、それらの修行の階程をふむことすら歴劫修行(りゃっこうしゅぎょう)と批判されるようになり、一切衆生は、本来、成仏していると考える思想([[如来蔵]]・[[本覚論]])や、、[[信]]によって、[[本尊]]に[[加持]]することで煩悩に結縛された状態から、ただちに涅槃に到達できるとする[[密教]]の[[即身成仏]](そくしんじようぶつ)などの思想も生まれた。


== 日本語文化のなかでの「成仏」 ==
== 日本語文化のなかでの「成仏」 ==

2007年3月10日 (土) 19:59時点における版


成仏(じょうぶつ)

さとりを開いて、仏陀(ぶっだ)(如来)になること。

概説

仏教の開祖釈迦(しゃか)は、ブッダガヤーの菩提樹の下で明(あけ)の明星を見て仏陀(ぶっだ、Buddha(sanskrit))すなわち覚(さと)れる者となった。さとりをさまたげる煩悩(ぼんのう)を断ち、輪廻(りんね, Samsara(sanskrit))の苦から解き放たれる意味で解脱(げだつ)といい、仏陀(覚れる者)に成るという意味で成仏という。

仏弟子たちは、釈迦と同様の解脱を得るため、釈迦より指導を受け、あるいは釈迦が入滅した後はその教えに随い。釈迦の説いた教義を学び、教団の戒律を守り、三昧(さんまい、Samādhi(sanskrit))や禅定(禅那、ぜんな、Dhyāna(sanskrit))とよばれる瞑想を行ない、修行につとめた。

その結果、釈迦と同様に輪廻からの解脱を得る境地(涅槃)に達した人物を阿羅漢と呼ぶ。これも、広い意味では成仏であるが、教祖である釈迦に対する尊崇の念から、阿羅漢に成ることを、成仏するとは普通は呼称しない。

あくまで、仏陀は、輪廻を繰り返す中で、数々の修行を積み、善行を行なって、ついに無師独悟した偉大なる釈迦、一人であるからだ。(オリジナルな悟りに達したのは釈迦のみ。阿羅漢に達した弟子はそのコピーにすぎない)

スリランカ、ミャンマー、タイなどに伝わる南方の上座部仏教(tera‐vaada (pali))では、涅槃(ねはん、般涅槃)を求め解脱し、阿羅漢と成ることを最終目標とする。

しかし、釈迦の教えは、仏教徒にとっては普遍的な宇宙の真理でもあるから、時代を経るにつれて、釈迦の過去にも、同様の真理に到達した過去仏がいたと考えられ、信仰されるようになった。また、釈迦入滅後56億7000万年後には、未来仏である弥勒如来が出現するとも信じられるようになった。

初期大乗仏教(Mahā-yāna(sanskrit))が成立すると、現世で直接に阿羅漢果を得ることが難しい在家信者であっても、輪廻を繰り返す中で、いつかは仏陀と同様のオリジナルな悟りに到達できる(成仏できる)のではないかと考えられ始めた。

成仏をめざして修行する者を菩薩とよぶ。釈迦が前世に菩薩であった時のように 絶ゆまぬ利他行に努めることで、自分もはるかに遠い未来(だいたい三大阿僧祇(1056*3)劫も先といわれている)に必ず成仏できる。そう信じて菩薩の修行である六波羅蜜を日々行じていくのが、大乗仏教の初期の教えであった。

さらに後期大乗仏教になると、それらの修行の階程をふむことすら歴劫修行(りゃっこうしゅぎょう)と批判されるようになり、一切衆生は、本来、成仏していると考える思想(如来蔵本覚論)や、、によって、本尊加持することで煩悩に結縛された状態から、ただちに涅槃に到達できるとする密教即身成仏(そくしんじようぶつ)などの思想も生まれた。

日本語文化のなかでの「成仏」

日常会話や文学作品などでしばしば用いられている「成仏」という表現は、「さとりを開いて仏陀になること」ではなく、死後に極楽あるいは天国といった安楽な世界に生まれ変わることを指し、「成仏」ができない、ということは、死後もその人の霊魂が現世をさまよっていることを指していることがある。

こうした表現は、日本古来の死生観が仏教に入り込みできあがった、仏教者が死を迎えてのちに仏の命(いのち)に帰ると考えられた信仰を背景にしている。