コンテンツにスキップ

「服虔」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
リンク修正など
1行目: 1行目:
'''服 虔'''(ふく けん、生没年不詳)は、[[中国]][[後漢]]末期の人。[[字]]は子慎。[[河南]]滎陽県の。『[[春秋左氏伝]]』・『[[漢書]]』の注釈で有名な大儒。
'''服 虔'''(ふく けん、生没年不詳)は、[[中国]][[後漢]]末期の人。[[字]]は子慎。[[河南尹|河南郡]]滎陽県の出身。『[[春秋左氏伝]]』・『[[漢書]]』の注釈で有名な大儒。


== 略歴 ==
== 略歴 ==
最初の名は重(ちょう)であったが祇(し)と改名し、更に虔と改名した。[[大学|太学]]で学び、著作を得意とした。
最初の名は重(ちょう)であったが祇(し)と改名し、更に虔と改名した。[[大学|太学]]で学び、著作を得意とした。


[[鄭玄]]が『春秋』伝に注を施そうと考えていた時、旅先の宿舎で偶然服虔に会った。まだお互い会った事が無かったが、鄭玄は服虔がある人と『春秋』伝の注について語っているのを聞き、主旨が自分の考えと同じだったので、鄭玄は服虔に「私は『春秋』伝に注を施そうと思っていてまだ終わっていなかったが、貴方の考えは私とほぼ同じであるようだから、私が注を付けた箇所を全て貴方に差し上げましょう」と言った。これによって服虔の注が完成した。(『[[世説新語]]』文学篇)
[[鄭玄]]が『春秋』伝に注を施そうと考えていた時、旅先の宿舎で偶然服虔に会った。まだお互い会った事が無かったが、鄭玄は服虔がある人と『春秋』伝の注について語っているのを聞き、主旨が自分の考えに近いった鄭玄は服虔に「私は『春秋』伝に注を施そうと思っていてまだ終わっていなかったが、貴方の考えは私とほぼ同じであるようだから、私が注を付けた箇所を全て貴方に差し上げましょう」と言った。これによって服虔の注が完成した。(『[[世説新語]]』文学篇)


また、服虔は『春秋』伝への注について他の者参考にしようとし、[[崔烈]]が門生を集めていると知って姓名を隠し、門生の振りをして講義を聞いた。崔烈は服虔の名を以前から聞いていたので、彼ではないかと怪しみ、早朝に彼の寝床へ行き、寝ている彼に「子慎」と呼びかけた。服虔は驚いて返事をしたので正体が露見し、二人は友人となった。(『世説新語』文学篇)
また、服虔は『春秋』伝への注について他の者の考えも参考にしようとし、[[崔烈]]が門生を集めていると知姓名を隠した上で、門生の振りをして講義を聞いた。崔烈は服虔の名を以前から聞いていたので、彼ではないかと怪しみ、早朝に彼の寝床へ行き、寝ている彼に「子慎」と呼びかけた。服虔は驚いて返事をしたので正体が露見し、二人は友人となった。(『世説新語』文学篇)


『春秋左氏伝解』を著し、また『[[春秋公羊伝]]』の大家[[何休]]が漢の事件について反駁した60数件について、『左伝』を用いて反論を加えた。[[孝廉]]に推挙され、昇進して[[中平]]年間末に[[九江]][[太守]]となったが罷免された。[[董卓]]死後に、[[陶謙]]・鄭玄・[[孔融]]・[[応劭]]らと共に[[朱儁]]を[[太師]]に推薦しようとしたが、朱儁が受けなかった。その後、避難先で病死した。
『春秋左氏伝解』を著し、また『[[春秋公羊伝]]』の大家[[何休]]が漢の事件について反駁した60数件について、『左伝』を用いて反論を加えた。[[孝廉]]に推挙され、昇進して[[中平]]年間末に[[九江]][[太守]]となったが罷免された。[[董卓]]死後に、[[陶謙]]・鄭玄・[[孔融]]・[[応劭]]らと共に[[朱儁]]を[[太師]]に推薦しようとしたが、朱儁が受けなかった。その後、避難先で病死した。

2013年1月10日 (木) 15:08時点における版

服 虔(ふく けん、生没年不詳)は、中国後漢末期の人。は子慎。河南郡滎陽県の出身。『春秋左氏伝』・『漢書』の注釈で有名な大儒。

略歴

最初の名は重(ちょう)であったが祇(し)と改名し、更に虔と改名した。太学で学び、著作を得意とした。

鄭玄が『春秋』伝に注を施そうと考えていた時、旅先の宿舎で偶然服虔に会った。まだお互い会った事が無かったが、鄭玄は服虔がある人と『春秋』伝の注について語っているのを聞き、主旨が自分の考えに近いと思った。鄭玄は服虔に「私は『春秋』伝に注を施そうと思っていてまだ終わっていなかったが、貴方の考えは私とほぼ同じであるようだから、私が注を付けた箇所を全て貴方に差し上げましょう」と言った。これによって服虔の注が完成した。(『世説新語』文学篇)

また、服虔は『春秋』伝への注について他の者の考えも参考にしようとし、崔烈が門生を集めていると知り姓名を隠した上で、門生の振りをして講義を聞いた。崔烈は服虔の名を以前から聞いていたので、彼ではないかと怪しみ、早朝に彼の寝床へ行き、寝ている彼に「子慎」と呼びかけた。服虔は驚いて返事をしたので正体が露見し、二人は友人となった。(『世説新語』文学篇)

『春秋左氏伝解』を著し、また『春秋公羊伝』の大家何休が漢の事件について反駁した60数件について、『左伝』を用いて反論を加えた。孝廉に推挙され、昇進して中平年間末に九江太守となったが罷免された。董卓死後に、陶謙・鄭玄・孔融応劭らと共に朱儁太師に推薦しようとしたが、朱儁が受けなかった。その後、避難先で病死した。

服虔は『漢書』への注釈でも知られ、顔師古による注の中でも引用されている。

また『隋書』経籍志によると『通俗文』という字書の著者とされる。

参考文献