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「ハインリヒ・ツー・メクレンブルク」の版間の差分

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2010年10月23日 (土) 21:16時点における版

メクレンブルク公ハインリヒ/オランダ王配ヘンドリック

ハインリヒ・ツー・メクレンブルク(Heinrich zu Mecklenburg, 1876年4月19日 - 1934年7月3日)は、メクレンブルク=シュヴェリーン大公国の王族。メクレンブルク公。メクレンブルク=シュヴェリーン大公フリードリヒ・フランツ2世の八男で、後にオランダ女王ヴィルヘルミナ王配となりオランダ王子に叙された。全名はドイツ語ハインリヒ・ヴラディミル・アルブレヒト・エルンストHeinrich Wladimir Albrecht Ernst)、オランダ語ヘンドリック・ヴラディミル・アルブレヒト・エルンストHendrik Wladimir Albrecht Ernst)。

1876年4月19日、フリードリヒ・フランツ2世とその三人目の妃であったシュヴァルツブルク=ルードルシュタット侯子カール・ギュンターの娘マリー(1850年 - 1922年)の間に第四子(末子)としてシュヴェリーンで生まれた。異母兄にフリードリヒ・フランツ3世がいる。

ドレスデンギムナジウムで教育を受けた。ギリシャイギリス領インド帝国セイロン島などを旅行してからドイツへ戻り、プロイセン王国陸軍に入隊した。その後ポツダムの近衛猟兵連隊に少尉として配属されしばらく軍歴を積んだ。

1900年10月16日にオランダ女王ヴィルヘルミナとの婚約が成立し、1901年2月7日ハーグで結婚した。またこの前日である2月6日付で、彼はオランダ王子Prins der Nederlanden)の称号と殿下(Koninklijke Hoogheid)の敬称を与えられた。なおメクレンブルク家側は彼に対してオラニエ公の称号を与えるよう求めたが、これは受け容れられなかった。

1901年海軍少将Schout-bij-nacht)および陸軍少将Generaal-majoor)に、1904年には海軍中将Viceadmiraal)および陸軍中将Luitenant-Generaal)に任じられた。また彼は枢密院Raad van State)の顧問官でもあったが、これらの地位を政治的に使うことはなかった。

1934年7月3日、心臓発作によりハーグで死去した。墓所はデルフト新教会にある。

子女

妻のヴィルヘルミナは何度か妊娠しているが、無事に生まれたのは一女だけであった。

また、別の女性との間に庶子をもうけていたことが1979年になって明らかになった。