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「佐和山藩」の版間の差分

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三成時代には佐和山はその善政によって民は豊かになり、「三成に過ぎたるものがふたつあり。島の左近([[島左近]])と佐和山の城」と言われるほどであった。ちなみに三成の善政を示すものとして、古橋の領民が凶作で苦しんでいるとき、三成は年貢を免訴して領民を助けたり、様々な法令を制定して領内を整備するなどの手腕を発揮している。
三成時代には佐和山はその善政によって民は豊かになり、「三成に過ぎたるものがふたつあり。島の左近([[島左近]])と佐和山の城」と言われるほどであった。ちなみに三成の善政を示すものとして、古橋の領民が凶作で苦しんでいるとき、三成は年貢を免訴して領民を助けたり、様々な法令を制定して領内を整備するなどの手腕を発揮している。



しかし三成は善政家ではあったが、その反面で横柄傲慢な一面があり、秀吉の死後、そのあまりな倣岸不遜な態度は諸大名からの反感を買った。実例として、[[島津義弘]]は「江州佐和山の城主・石田治部少輔、太閤公の股肱の臣として、その勢威、比肩の人なし」、[[毛利輝元]]は「かの仁、当時、肝心の人にて、なかなか申すに及ばず。大かた心得にて候(大いに気を使う)」、[[木食応其]]上人は「治少、御奉行のその随一なる顔にて候つる。少しもそむけ候えば、たちまち身のさわりをなす仁に候」と評しているほどだ。
つまり、三成は秀吉の寵愛をいいことに権勢を振るい、そして諸大名に対して傲岸不遜で横柄な態度をとり続けていたのである。この性格は宿敵である家康さえに豊臣家臣団分裂の促進剤として利用されるほどであった。このため、[[慶長]]5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]で、三成は関ヶ原で東軍に対して有利な陣形を敷いたにも関わらず([[明治時代]]に政府の軍事顧問として来日した[[ドイツ]]の[[クレメンス・メッケル]]少佐は布陣図を見て三成ら西軍の勝利と即座に断言している)、その横柄な性格から人望がなく、統率もとれていなかった西軍から裏切り者が続出し、結果として三成は家康に敗れたというより、自爆に近い形で敗れ、三条河原の露と消えたのである。また、石田一族も[[小早川秀秋]]らによって攻められて滅亡した。


[[関が原の戦い]]で石田氏が滅亡した後、佐和山には関ヶ原の戦いで武功を挙げた[[徳川四天王]]の一人・[[井伊直政]]が18万石で入った。しかし直政はわずか2年後の慶長7年([[1602年]])に急死してしまった。これは関ヶ原の戦いによる戦傷による死去と言われているが、世間では三成の亡霊に呪い殺されたとも噂された。このため、家康は三成に関わるものとして佐和山城は勿論のこと、寺であろうと何であろうと破却させ、直政の後を継いだ子の[[井伊直継]]には新たに[[彦根城]]を築城するように命じた。そして彦根城の完成と共に、佐和山藩は廃藩となったのである。
[[関が原の戦い]]で石田氏が滅亡した後、佐和山には関ヶ原の戦いで武功を挙げた[[徳川四天王]]の一人・[[井伊直政]]が18万石で入った。しかし直政はわずか2年後の慶長7年([[1602年]])に急死してしまった。これは関ヶ原の戦いによる戦傷による死去と言われているが、世間では三成の亡霊に呪い殺されたとも噂された。このため、家康は三成に関わるものとして佐和山城は勿論のこと、寺であろうと何であろうと破却させ、直政の後を継いだ子の[[井伊直継]]には新たに[[彦根城]]を築城するように命じた。そして彦根城の完成と共に、佐和山藩は廃藩となったのである。

2005年11月12日 (土) 14:49時点における版

佐和山藩さわやまはん)は、近江国(現在の滋賀県彦根市古沢町)に存在した

概要

佐和山藩は文禄4年(1595年)に豊臣秀吉のもとで五奉行として辣腕を振るっていた石田三成が、近江水口から移封されて19万4000石で入ることで立藩した。ただし、石田氏は豊臣氏の家臣であるため、幕藩体制下における藩主家ではない。佐和山は織田信長の時代から要衝と見なされ、信長は特に信任の厚かった重臣・丹羽長秀を城主としているほどである。

三成時代には佐和山はその善政によって民は豊かになり、「三成に過ぎたるものがふたつあり。島の左近(島左近)と佐和山の城」と言われるほどであった。ちなみに三成の善政を示すものとして、古橋の領民が凶作で苦しんでいるとき、三成は年貢を免訴して領民を助けたり、様々な法令を制定して領内を整備するなどの手腕を発揮している。


関が原の戦いで石田氏が滅亡した後、佐和山には関ヶ原の戦いで武功を挙げた徳川四天王の一人・井伊直政が18万石で入った。しかし直政はわずか2年後の慶長7年(1602年)に急死してしまった。これは関ヶ原の戦いによる戦傷による死去と言われているが、世間では三成の亡霊に呪い殺されたとも噂された。このため、家康は三成に関わるものとして佐和山城は勿論のこと、寺であろうと何であろうと破却させ、直政の後を継いだ子の井伊直継には新たに彦根城を築城するように命じた。そして彦根城の完成と共に、佐和山藩は廃藩となったのである。

歴代藩主

石田(いしだ)家

19万4000石。

  1. 石田三成(みつなり)【文禄4年(1595年)領主就任-慶長5年(1600年)10月1日処刑】

井伊(いい)家

譜代。18万石。

  1. 井伊直政(なおまさ)【慶長5年藩主就任-慶長7年(1602年)死去】
  2. 井伊直継(なおつぐ)【慶長7年3月藩主就任-元和元年(1615年)2月分知】

関連事項