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「エレオノーレ・マグダレーネ・フォン・プファルツ=ノイブルク」の版間の差分

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'''エレオノーレ・マグダレーネ・テレーゼ・フォン・プファルツ=ノイブルク'''または'''フォン・デア・プファルツ'''(Eleonore Magdalene Therese von Pfalz-Neuburg (von der Pfalz), [[1655年]][[1月6日]] - [[1720年]][[1月19日]])は、[[神聖ローマ皇帝]][[レオポルト1世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト1世]]の皇后。[[ライン宮中伯|プファルツ選帝侯]](元は[[プファルツ=ノイブルク公]])[[フィリップ・ヴィルヘルム (プファルツ選帝侯)|フィリップ・ヴィルヘルム]]の長女。母は[[ヘッセン=ダルムシュタット方伯領|ヘッセン=ダルムシュタット方伯]][[ゲオルク2世 (ヘッセン=ダルムシュタット方伯)|ゲオルク2世]]の娘[[エリーザベト・アマーリア・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット|エリーザベト・アマーリア]]。弟にプファルツ選帝侯[[ヨハン・ヴィルヘルム (プファルツ選帝侯)|ヨハン・ヴィルヘルム]]、[[カール3世フィリップ (プファルツ選帝侯)|カール3世フィリップ]]、妹に[[ポルトガル王国|ポルトガル]]王[[ペドロ2世 (ポルトガル王)|ペドロ2世]]の妃[[マリー・ゾフィー・フォン・デア・プファルツ|マリア・ソフィア]]、[[スペイン]]王[[カルロス2世 (スペイン王)|カルロス2世]]の妃[[マリア・アンナ・フォン・プファルツ=ノイブルク|マリア・アンナ]]、[[パルマ公国|パルマ公子]][[オドアルド2世・ファルネーゼ|オドアルド2世]]妃[[ドロテア・ゾフィア・フォン・プファルツ=ノイブルク|ドロテア・ゾフィー]]らがいる。
'''エレオノーレ・マグダレーネ・テレーゼ・フォン・プファルツ=ノイブルク'''または'''フォン・デア・プファルツ'''(Eleonore Magdalene Therese von Pfalz-Neuburg (von der Pfalz), [[1655年]][[1月6日]] - [[1720年]][[1月19日]])は、[[神聖ローマ皇帝]][[レオポルト1世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト1世]]の皇后。[[ライン宮中伯|プファルツ選帝侯]](元は[[プファルツ=ノイブルク公]])[[フィリップ・ヴィルヘルム (プファルツ選帝侯)|フィリップ・ヴィルヘルム]]の長女。母は[[ヘッセン=ダルムシュタット方伯領|ヘッセン=ダルムシュタット方伯]][[ゲオルク2世 (ヘッセン=ダルムシュタット方伯)|ゲオルク2世]]の娘[[エリーザベト・アマーリア・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット|エリーザベト・アマーリア]]。弟にプファルツ選帝侯[[ヨハン・ヴィルヘルム (プファルツ選帝侯)|ヨハン・ヴィルヘルム]]、[[カール3世フィリップ (プファルツ選帝侯)|カール3世フィリップ]]、妹に[[ポルトガル王国|ポルトガル]]王[[ペドロ2世 (ポルトガル王)|ペドロ2世]]の妃[[マリー・ゾフィー・フォン・デア・プファルツ|マリア・ソフィア]]、[[スペイン]]王[[カルロス2世 (スペイン王)|カルロス2世]]の妃[[マリア・アンナ・フォン・プファルツ=ノイブルク|マリア・アンナ]]、[[パルマ公国|パルマ公子]][[オドアルド2世・ファルネーゼ|オドアルド2世]]妃[[ドロテア・ゾフィア・フォン・プファルツ=ノイブルク|ドロテア・ゾフィー]]らがいる。


[[1676年]]にレオポルト1世と結婚した。レオポルト1世にとっては3人目の妻である。2人の先妻との間に生まれた男子は全て夭折したが、エレオノーレとの間には10人もの子に恵まれ、うち[[ヨーゼフ1世 (神聖ローマ皇帝)|ヨーゼフ]]と[[カール6世 (神聖ローマ皇帝)|カール]]が相次いで帝位を継承した。しかし、この息子2人の代でオーストリア・[[ハプスブルク家]]の男系は絶えてしまうことになる。
[[1676年]]にレオポルト1世と結婚した。レオポルト1世にとっては3人目の妻である。2人の先妻との間に生まれた男子は全て夭折したが、エレオノーレとの間には10人もの子に恵まれ、うち[[ヨーゼフ1世 (神聖ローマ皇帝)|ヨーゼフ]]と[[カール6世 (神聖ローマ皇帝)|カール]]が相次いで帝位を継承した。しかし、この息子2人の代でオーストリア・[[ハプスブルク家]]の男系男子は絶えてしまうことになる。


== 子女 ==
== 子女 ==

2013年5月5日 (日) 08:27時点における版

皇后エレオノーレ・マグダレーネ

エレオノーレ・マグダレーネ・テレーゼ・フォン・プファルツ=ノイブルクまたはフォン・デア・プファルツ(Eleonore Magdalene Therese von Pfalz-Neuburg (von der Pfalz), 1655年1月6日 - 1720年1月19日)は、神聖ローマ皇帝レオポルト1世の皇后。プファルツ選帝侯(元はプファルツ=ノイブルク公フィリップ・ヴィルヘルムの長女。母はヘッセン=ダルムシュタット方伯ゲオルク2世の娘エリーザベト・アマーリア。弟にプファルツ選帝侯ヨハン・ヴィルヘルムカール3世フィリップ、妹にポルトガルペドロ2世の妃マリア・ソフィアスペインカルロス2世の妃マリア・アンナパルマ公子オドアルド2世ドロテア・ゾフィーらがいる。

1676年にレオポルト1世と結婚した。レオポルト1世にとっては3人目の妻である。2人の先妻との間に生まれた男子は全て夭折したが、エレオノーレとの間には10人もの子に恵まれ、うちヨーゼフカールが相次いで帝位を継承した。しかし、この息子2人の代でオーストリア・ハプスブルク家の男系男子は絶えてしまうことになる。

子女

関連項目