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2020年10月12日 (月) 06:06時点における版

金子 兜太
(かねこ とうた)
2017年4月
誕生 (1919-09-23) 1919年9月23日
日本の旗 日本 埼玉県比企郡小川町
死没 日本の旗 日本 埼玉県熊谷市
職業 俳人
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
教育 経済学士
最終学歴 東京帝国大学経済学部卒業
文学活動 社会性俳句運動前衛俳句運動
主な受賞歴 現代俳句協会賞1956年
詩歌文学館賞1996年
現代俳句大賞(2001年)
蛇笏賞2002年
日本芸術院賞2003年
正岡子規国際俳句賞大賞(2008年
毎日芸術賞特別賞(2010年
小野市詩歌文学賞(2010年)
菊池寛賞(2010年)
朝日賞(2016年)
配偶者 金子皆子(1947年-2006年)
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金子 兜太(かねこ とうた、1919年大正8年)9月23日[1])は、埼玉県出身の俳人現代俳句協会名誉会長日本芸術院会員、文化功労者小林一茶種田山頭火の研究家としても知られる。

加藤楸邨に師事。「寒雷」所属を経て「海程」を創刊、主宰。戦後の社会性俳句運動、前衛俳句運動において理論と実作の両面で中心的な役割を果たし、その後も後進を育てつつ第一線で活動した。上武大学文学部教授、現代俳句協会会長などを歴任。

来歴

1919年9月23日、埼玉県比企郡小川町の母の実家で、父の金子元春と母のはるの長男として生まれる。父の元春は開業医で、「伊昔紅(いせきこう)」の俳号を持つ俳人である。水原秋桜子の「馬酔木」に所属し、1930年に自身の俳誌「若鮎」を創刊[2]し、秩父音頭の復興者としても知られている[3][4]。伊昔紅の代表句は「元日や餅で押し出す去年糞」で、桂三木助が「蛇含草」を演する時にこれを引用し、その流れから『ビートたけしのオールナイトニッポン』初回にビートたけしが「元旦や餅で押し出す二年糞」と同句を捻ったものを第一声としたために有名になった[5]。2歳から4歳までその父の勤務地であった上海で、帰国して以降は秩父の地で育つ。

旧制熊谷中学を卒業し、1937年旧制水戸高等学校入学[6]。高校在学中の1937年に、一級上の出澤三太に誘われて同校教授宅の句会に参加してはじめて句作[2]し、「白梅や老子無心の旅に出る」[7]と詠んだ。以来、本格的に句作をはじめ、翌年に全国学生俳誌「成層圏」に参加し、竹下しづの女加藤楸邨中村草田男らの知遇を得る。1939年に、嶋田青峰の「土上」に投句する。1940年に卒業[8]し、1941年東京帝国大学経済学部に入学する[9]と、加藤楸邨主宰の「寒雷」に投句し、以来楸邨に師事する。

1943年に大学を繰り上げ卒業し、佐々木直の面接をうけて日本銀行へ入行[2]した。海軍経理学校短期現役士官として入校して、大日本帝国海軍主計中尉に任官、トラック島で200人の部下を率いる。餓死者が相次ぐなか、2度にわたり奇跡的に命拾いする。1946年に捕虜として春島でアメリカ航空基地建設に従事し[7]、11月に最終復員船で帰国する。1947年2月に日本銀行へ復職し、4月に塩谷皆子と結婚[7]する。1949年から翌年末にかけて、日本銀行労働組合の専従初代事務局長を務め、その間に浦和から竹沢村に住居を移す。1950年末に福島支店、1953年に神戸支店、1958年に長崎支店へ転勤ののち、1960年に東京本店に戻る[10]。支店まわりから「窓際族ではなく、窓奥。1日2-3回開けるだけの本店の金庫番。だから書けた」という仕事で、1974年の55歳定年まで勤めた。

1947年に「寒雷」へ復帰し、沢木欣一の「」創刊に参加して主唱する社会性俳句運動に共鳴する。1951年に福島の藤村多加夫の持ち家に居住しながら、「波郷と楸邨」を『俳句研究』に執筆する。1955年から日本ペンクラブ会員になる。1957年西東三鬼の勧めで「俳句の造型について」を『俳句』誌に発表して俳句造型論を展開し、自身の創作方法を理論化する。1958年に新俳句人連盟の中央委員に推薦され[11]栗林一石路とともに同誌雑詠欄の選者を1959年10月号までの1年間担当する。1960年頃より前衛俳句の旗手に数えられる[12]1962年隈治人林田紀音夫堀葦男らと同人誌「海程」を創刊し、1985年より結社誌となり主宰に就任する。

1974年から1979年まで上武大学で教授を、1983年から現代俳句協会会長、1987年から朝日俳壇選者[7]をそれぞれ務め、1992年日本中国文化交流協会常任理事、2000年に現代俳句協会名誉会長にそれぞれ就き、2005年から日本芸術院会員となる。2006年に妻の皆子が死去する。2015年いとうせいこうとともに『中日新聞』『東京新聞』の「平和の俳句」選者、ほかに一ツ橋綜合財団理事などを務めた。

2018年2月6日に誤嚥肺炎の疑いで熊谷市内の病院に入院するも、20日に急性呼吸促迫症候群で死去し、長男の真土とその妻が看取った。満98歳没(享年100)[1]。2018年6月22日、有楽町朝日ホールで「お別れ会」が開催された。発起人は黒田杏子現代俳句協会など[13]

作品・俳論

  • 曼珠沙華どれも腹出し秩父の子(『少年』、1955年)
  • 水脈(みお)の果(はて)炎天の墓碑を置きて去る(『少年』、1955年)
  • 銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく(『金子兜太句集』、1961年)
  • 彎曲し火傷(かしょう)し爆心地のマラソン(『金子兜太句集』、1961年)
  • 人体冷えて東北白い花盛り(『蜿蜿』、1968年)
  • 霧の村石を投(ほう)らば父母散らん(『蜿蜿』、1968年)
  • 暗黒や関東平野に火事一つ(『暗緑地誌』、1971年)
  • 梅咲いて庭中に青鮫が来ている(『遊牧集』、1981年)
  • おおかみに蛍が一つ付いていた(『東国抄』、2001年)
  • 夏の山国母いてわれを与太という(『東国抄』、2001年)

などが代表句として知られる[14][3]。素朴で骨太の叙情[15]、スローガン的とも言われるダイナミックな文体を特徴とし、戦後俳壇の中心的存在として伝統派の飯田龍太と並び称される[16]

戦後参加した社会性俳句については、沢木欣一が社会主義イデオロギーを根底にもった句と規定したのに対して、「社会性は態度の問題」であり「自分を社会的関連のなかで考え、解決しようとする「社会的な姿勢」が意識的に取られている態度」であるという見解を示す(1954年、「風」誌のアンケート)[17]。1957年の「俳句の造型について」では、従来の俳句を自分と対象との直接結合による素朴な方法によるものとした上で、自分と対象との間に「創る自分」という意識を介在させ、暗喩的なイメージを獲得する「造型」の方法を提唱。のち1960年に、「創る自分」を発展的に解消した「造型俳句六章」へと繋がった。この前後から前衛俳句の旗手とも見なされ、中村草田男山本健吉らの俳句観と対立し論争も行っている[18]。また小林一茶種田山頭火を論じ、漂泊詩人の再評価も行った。

主宰を務める「海程」の結社活動においては、「俳諧自由」をキーワードに個性重視の方針をとり、門人を自身の俳句観に従わせるのではなく、それぞれの個性を発揮できるようにするためのアドバイザーとしての立場に身を置いているとしている[19]

我流の個性的なも人気を得ている[20]。2015年7月・8月の平和安全法制反対集会などで掲げられたプラカードアベ政治を許さない」は、澤地久枝の依頼を受けて揮毫したものである[21]

最晩年の2018年、窪島誠一郎(「無言館」館主)とマブソン青眼(俳人)と共に「俳句弾圧不忘の碑」(「無言館」近辺建立)の筆頭呼びかけ人となり、その碑文を揮毫。

受賞・栄典

著書

句集

  • 『少年』風発行所、1955年。
  • 『金子兜太句集』風発行所、1961年。※第二句集として『半島』を収める
  • 『蜿蜿』三青社、1968年。
  • 『暗緑地誌』牧羊社、1971年。
  • 『金子兜太全句集』立風書房、1975年。※未完句集『生長』、第6句集『狡童』を収める。
  • 『旅路抄録』構造社、1977年。
  • 『早春展墓』湯川書房、1984年。
  • 『遊牧集』蒼土舎、1981年。
  • 『猪羊集』現代俳句協会、1982年。
  • 『詩経国風』角川書店、1985年。
  • 『皆之』立風書房、1986年。
  • 『黄』ふらんす堂、1991年。※選句集
  • 『両神』立風書房、1995年。
  • 『東国抄』花神社、2001年。
  • 『日常』ふらんす堂、2009年。
  • 『百年』朔出版、2019年。

随筆・俳書

  • 『今日の俳句』光文社、1965年。
  • 『定型の詩法』海程舎、1970年。
  • 『定住漂泊』春秋社、1972年。
  • 『種田山頭火 漂泊の俳人』 講談社現代新書、1974年。
  • 『詩形一本』永田書房、1974年。
  • 『俳童愚話』北洋社、1975年。
  • 『ある庶民考』合同出版、1977年。
  • 『愛句百句』講談社、1978年。
  • 『俳句入門』北洋社、1979年。
  • 『流れゆくものの俳諧』朝比ソノラマ、1979年。
  • 『小林一茶』講談社現代新書、1980年。
  • 『中山道物語』吉野教育図書、1981年。
  • 『熊猫荘点景』冬樹社、1981年。
  • 『一茶句集』岩波書店、1983年。
  • 『漂泊三人 ―一茶・放哉・山頭火』飯塚書店、1983年。
  • 『兜太俳句教室』永田書房、1984年。
  • 『俳句の本質』永田書房、1984年。
  • 『兜太詩話』飯塚書店、1984年。
  • 『感性時代の俳句塾』サンケイ出版、1984年。
  • 『現代俳句を読む』飯塚書店、1985年。
  • 『わが戦後俳句誌』岩波新書、1985年。
  • 『熊猫荘俳話』飯塚書店、1987年。
  • 『放浪行乞』集英社、1987年。
  • 『兜太現代俳句塾』主婦の友社、1988年。
  • 『各界俳人三百句』主婦の友社、1989年。
  • 『兜太のつれづれ歳時記』創拓社、1992年。
  • 『遠い句近い句―わが愛句鑑賞』富士見書房、1993年。
  • 『二度生きる―凡夫の俳句人生』チクマ秀版社、1994年。
  • 『兜太の俳句添削塾』毎日新聞社、1997年。
  • 『俳句専念』ちくま新書、1999年。
  • 『漂泊の俳人たち』NHK出版、1999年。
  • 『俳句の本質』永田書房、2000年。
  • 『今日の俳句―古池の「わび」より海の「感動」へ』光文社、2002年。
  • 『中年からの俳句人生塾』海竜社、2004年。
  • 『酒止めようかどの本能と遊ぼうか―俳童の自画像』中経出版、2007年。
  • 『金子兜太の俳句を楽しむ人生』中経出版、2011年。
  • 『老いを楽しむ人生』海竜社、2011年。
  • 『わたしの骨格「自由人」』NHK出版、2012年。
  • 『金子兜太の俳句入門』角川ソフィア文庫、2012年。
  • 『荒凡夫 一茶』白水社、2012年。
  • 『語る 兜太――わが俳句人生 金子兜太』(聞き手・黒田杏子)岩波書店、2014年。6月
  • 『小林一茶――句による評伝』岩波現代文庫、2014年。3月
  • 『日本行脚 俳句旅』アーツアンドクラフツ、2014年。8月
  • 『私はどうも死ぬ気がしない 荒々しく、平凡に生きる極意』幻冬舎、2014年。10月
  • 『他界』講談社、2014年12月。

共著・対談

  • 『短詩型文学論』(岡井隆との共著)紀伊国屋書店、1963年。
  • 『俳諧有情』(対談集) 三一書房、1988年。
  • 『俳句の現在』(飯田龍太森澄雄尾形仂との座談会) 富士見書房、1989年。
  • 『他流試合 兜太・せいこうの新俳句鑑賞』(いとうせいこうとの共著)講談社、2001年。
  • 『米寿快談―俳句・短歌・いのち』(鶴見和子との共著)藤原書店、2006年。
  • 『たっぷり生きる』(日野原重明との共著)角川学芸出版、2010年。
  • 『語る 俳句 短歌』(佐々木幸綱との対談。黒田杏子編)藤原書店、2011年。
  • 『金子兜太×池田澄子―兜太百句を読む。』(池田澄子との共著) ふらんす堂、2011年。

著作集

脚注

  1. ^ a b “金子兜太さん死去 戦後日本を代表する俳人”. 朝日新聞. (2018年2月21日1時9分). https://www.asahi.com/articles/ASL2N7SV4L2NUCLV01C.html 2018年2月21日閲覧。 
  2. ^ a b c 『金子兜太 高柳重信集』 三橋敏雄解説、371頁。
  3. ^ a b 五島高資 「金子兜太」 『現代俳句大事典』、152-154頁。
  4. ^ 秩父音頭のふるさと(みんなのみなの 皆野町観光協会) - ウェイバックマシン(2013年6月6日アーカイブ分)
  5. ^ 2011年1月 4日 (火)元旦や餅で押し出す二年グソ
  6. ^ 『官報』第3080号、昭和12年4月12日、p.399
  7. ^ a b c d 安西篤 編 「金子兜太略年譜」『金子兜太』196-199頁。
  8. ^ 水戸高等学校一覧 自昭和15年至昭和16年』水戸高等学校、1940年、221頁。 
  9. ^ 『官報』第4272号、昭和16年4月7日、p.310東京帝国大学一覧 昭和16年』東京帝国大学、1941年、591頁。 
  10. ^ 『金子兜太 高柳重信集』 三橋敏雄解説、372頁。
  11. ^ 『俳句人』1958年8月号「新委員推薦」、25頁。
  12. ^ 『金子兜太 高柳重信集』 三橋敏雄解説、373頁。
  13. ^ 佐藤達哉[要曖昧さ回避] (2018年6月23日). “都内でお別れ会 750人兜太さんしのぶ”. 埼玉新聞 
  14. ^ 『現代の俳人101』 125頁。
  15. ^ あらきみほ 『図説 俳句』 180頁。
  16. ^ 坪内稔典 「叙情と含羞の日常」『金子兜太の世界』 36-37頁。
  17. ^ 高野ムツオ 「社会性俳句」『現代俳句大事典』 275-276頁。
  18. ^ 筑紫磐井 「金子兜太の実像」『金子兜太の世界』 42-46頁。
  19. ^ 金子兜太・村上護「対談 わが俳句を語る」 『金子兜太』 25頁。
  20. ^ 安西篤 「わが師、わが結社」 『金子兜太』 191-192頁。
  21. ^ 朝日新聞東京版)2015年7月19日付朝刊、35面

参考文献

関連文献

  • 黒田杏子『金子兜太養生訓』白水社、20

外部リンク