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[[環境問題]]の論客として知られる。下院議員、上院議員、ビル・クリントン政権にて第45代[[アメリカ合衆国副大統領]]を歴任した。[[2000年アメリカ合衆国大統領選挙]]民主党の大統領候補であり、全国一斉投票では[[共和党 (アメリカ)|共和党]]の大統領候補である[[ジョージ・W・ブッシュ]]より得票数で上回ったが、[[フロリダ州]]での開票手続きについての問題の後に落選が決定し、政界の表舞台から引退した。その後は環境活動家として活動し、2007年に[[ノーベル平和賞]]を受賞している。
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== 生い立ちと家族・人物評 ==
== 生い立ちと家族・人物評 ==
1948年3月31日に[[アルバート・ゴア・シニア]]と[[:en:Pauline LaFon Gore|ポーリーン・ラフォン]]の長男として[[ワシントンD.C.]]で生まれた。父はテネシーのベテラン民主党上院議員で、ゴアは[[ワシントンD.C.]]と[[テネシー州]][[:en:Carthage, Tennessee|カーセッジ]]で幼少期を過ごした。学生時代ゴア一家はワシントンのホテルに住み、セント・アルバンズ・スクールに通学した。夏季休暇中はカーセッジで暮らし、家族の農場で働いた。
1948年3月31日に[[アルバート・ゴア・シニア]]と[[:en:Pauline LaFon Gore|ポーリーン・ラフォン]]の長男として[[ワシントンD.C.]]でた。父はテネシーのベテラン民主党上院議員で、ゴアは[[ワシントンD.C.]]と[[テネシー州]][[:en:Carthage, Tennessee|カーセッジ]]で幼少期を過ごした。学生時代ゴア一家はワシントンのホテルに住み、セント・アルバンズ・スクールに通学した。夏季休暇中はカーセッジで暮らし、家族の農場で働いた。


[[1965年]]に[[ハーバード大学]]に入学し、[[政治学]]を専攻した。当時の彼のルームメートは後に[[俳優]]になる[[トミー・リー・ジョーンズ]]であった。彼は[[1969年]]の6月にハーバード・カレッジを[[学士|BA]]([[:en:Bachelor of Arts|Bachelor of Arts]])を取得して卒業した。 [[1974年]]に[[ヴァンダービルト大学]][[ロー・スクール (アメリカ合衆国)|ロー・スクール]]に入学したが、[[1976年]]に中退。
[[1965年]]に[[ハーバード大学]]に入学し、[[政治学]]を専攻した。当時の彼のルームメートは後に[[俳優]]になる[[トミー・リー・ジョーンズ]]であった。彼は[[1969年]]の6月にハーバード・カレッジを[[学士|BA]]([[:en:Bachelor of Arts|Bachelor of Arts]])を取得して卒業した。 [[1974年]]に[[ヴァンダービルト大学]][[ロー・スクール (アメリカ合衆国)|ロー・スクール]]に入学したが、[[1976年]]に中退。


[[1970年]]にメアリー・エリザベス・エイチェソン ([[ティッパー・ゴア]])と結婚した。彼らは高校時代にテネシーのダンスパーティで出会い、結婚後は4人の子供をもうけた。[[:en:Karenna Gore|カレナ]] ([[1973年]]8月6日 - , ドルー・シフと[[1997年]]から[[2010年]]まで結婚していた)、[[:en:Kristin Gore| クリスティン]] ([[1977年]]6月5日 - )、サラ ([[1979年]]1月7日 - ) 及び[[:en:Al Gore III|アルバート3世]] ([[1982年]]10月19日 - )。ゴアにはさらにワイアット及びアンナ・シフという2人の孫がいる。2010年2月に長年連れ立ったメアリーと離婚することを公表し、別居を始めた。2012年現在は、大口政治資金提供者だったエリザベス(リズ)・キードルと交際中である。
[[1970年]]にメアリー・エリザベス・エイチェソン ([[ティッパー・ゴア]])と結婚した。彼らは高校時代にテネシーのダンスパーティで出会い、結婚後は4人の子供をもうけた。[[:en:Karenna Gore|カレナ]] ([[1973年]]8月6日 - , ドルー・シフと[[1997年]]から[[2010年]]まで結婚していた)、[[:en:Kristin Gore| クリスティン]] ([[1977年]]6月5日 - )、サラ ([[1979年]]1月7日 - ) 及び[[:en:Al Gore III|アルバート3世]] ([[1982年]]10月19日 - )。ゴアにはにワイアット及びアンナ・シフという2人の孫がいる。2010年2月に長年連れ立ったメアリーと離婚することを公表し、別居を始めた。2012年現在は、大口政治資金提供者だったエリザベス(リズ)・キードルと交際中である。


<!--アルバート3世は大麻所持で逮捕(一番右のデブ→[http://cnn.co.jp/usa/images/CNN200707050004.jpg 3世])-->
<!--アルバート3世は大麻所持で逮捕(一番右のデブ→[http://cnn.co.jp/usa/images/CNN200707050004.jpg 3世])-->
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== 政歴 ==
== 政歴 ==
[[1976年]]の春ロースクールを退学したゴアは[[テネシー州]]の選挙区から[[アメリカ合衆国下院|下院議会]]選挙に出馬し当選した。3回当選を重ねた後の[[1984年]]には下院に出馬せず、[[アメリカ合衆国上院|上院議会]]選挙に立候補して当選し、[[1992年]]に[[アメリカ合衆国副大統領]]に選出されるまで務めた。
[[1976年]]の春ロースクールを退学したゴアは[[テネシー州]]の選挙区から[[アメリカ合衆国下院|下院議会]]選挙に出馬し当選した。3回当選を重ねた後の[[1984年]]には下院に出馬せず、[[アメリカ合衆国上院|上院議会]]選挙に立候補して当選し、[[1992年]]に[[アメリカ合衆国副大統領]]に選出されるまで務めた。


[[1988年アメリカ合衆国大統領選挙]]に出馬するも予備選挙の段階で敗退し、その後[[マイケル・デュカキス]]支持にまわっている。
[[1988年アメリカ合衆国大統領選挙]]に出馬するも予備選挙の段階で敗退し、その後[[マイケル・デュカキス]]支持にっている。


[[1989年]][[4月3日]]当時6歳の息子であるアルバートが[[ボルティモア・オリオールズ]]の開幕戦から帰る途中交通事故に遭い、瀕死の重傷を負った。これを受けてゴアは大統領予備選挙に向けて[[ビル・クリントン|クリントン]]に対抗する基盤作りよりも息子の回復を見守ることを選んだ。そしてその間は環境保護を訴える本(『[[:en:Earth in the Balance|Earth in the Balance]]』邦題:『地球の掟』)の執筆を行い、それが[[ニューヨーク・タイムズ]]によるベストセラー本のリストに入った。<!--これは現職上院議員が著した本としては[[ジョン・F・ケネディ]]の『[[:en:Profiles in Courage|Profiles in Courage]]』(邦題:『[[勇気ある人々]]』)以来のことであった。 → 脱線トリビア -->
[[1989年]][[4月3日]]当時6歳の息子であるアルバートが[[ボルティモア・オリオールズ]]の開幕戦から帰る途中交通事故に遭い、瀕死の重傷を負った。これを受けてゴアは大統領予備選挙に向けて[[ビル・クリントン|クリントン]]に対抗する基盤作りよりも息子の回復を見守ることを選んだ。そしてその間は環境保護を訴える本(『[[:en:Earth in the Balance|Earth in the Balance]]』邦題:『地球の掟』)の執筆を行い、それが[[ニューヨーク・タイムズ]]によるベストセラー本のリストに入った。<!--これは現職上院議員が著した本としては[[ジョン・F・ケネディ]]の『[[:en:Profiles in Courage|Profiles in Courage]]』(邦題:『[[勇気ある人々]]』)以来のことであった。 → 脱線トリビア -->


[[1991年]]にはアルバートが提出した[[:en:High Performance Computing Act of 1991|高性能コンピュータ法]](HPC法)が[[ジョージ・H・W・ブッシュ]]政権の下で可決され、後のクリントン政権での情報スーパーハイウェイ構想の端緒となった。
[[1991年]]にはアルバートが提出した[[:en:High Performance Computing Act of 1991|高性能コンピュータ法]](HPC法)が[[ジョージ・H・W・ブッシュ]]政権の下で可決され、後のクリントン政権での情報スーパーハイウェイ構想の端緒となった。
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== 副大統領 ==
== 副大統領 ==
[[ファイル:Bill Clinton Al Gore.jpg|200px|thumb|クリントン大統領と (1993年8月に[[ホワイトハウス]]にて)]]
[[ファイル:Bill Clinton Al Gore.jpg|200px|thumb|[[ホワイトハウス]]にてビル・クリントン大統領と (1993年8月)]]
ビル・クリントンは[[1992年アメリカ合衆国大統領選挙]]に向けて、[[1992年]]7月9日にゴアを副大統領候補に選んだ。大統領選挙に勝利した後、ゴアは[[1993年]]1月20日に45代目アメリカ合衆国副大統領に就任した。そして、クリントンと共に[[1996年アメリカ合衆国大統領選挙]]にて再選され、2001年1月20日まで2期8年に渡って副大統領を務めた。
ビル・クリントンは[[1992年アメリカ合衆国大統領選挙]]に向けて、[[1992年]]7月9日にゴアを副大統領候補に選んだ。大統領選挙に勝利した後、ゴアは[[1993年]]1月20日に45代目アメリカ合衆国副大統領に就任した。そして、クリントンと共に[[1996年アメリカ合衆国大統領選挙]]にて再選され、2001年1月20日まで2期8年に渡って副大統領を務めた。


在任中ゴアは表舞台には現れなかったが、多くの専門家は、彼をアメリカ合衆国の歴史上最も活動的で多大な影響力を持った副大統領の人だと考えている。彼の副大統領としての主な業績としてはまず、国家運営の検査と評価が挙げられる。彼は連邦政府の浪費・不正行為などの問題点を指摘し、官僚機構の規模の縮小や規制の撤廃の必要性を強調した。後にこれに関するゴアの改革案<ref>[http://clinton5.nara.gov/WH/EOP/OVP/initiatives/reinventing_government.html Reinventing Government]</ref>が連邦政府の規模縮小に繋がった。
在任中ゴアは表舞台には現れなかったが、多くの専門家は、彼をアメリカ合衆国の歴史上最も活動的で多大な影響力を持った副大統領の1人だと考えている。彼の副大統領としての主な業績としてはまず、国家運営の検査と評価が挙げられる。彼は連邦政府の浪費・不正行為などの問題点を指摘し、官僚機構の規模の縮小や規制の撤廃の必要性を強調した。後にこれに関するゴアの改革案<ref>[http://clinton5.nara.gov/WH/EOP/OVP/initiatives/reinventing_government.html Reinventing Government]</ref>が連邦政府の規模縮小に繋がった。


[[1993年]]には[[ラリー・キング]]がホストを務める[[CNN]]の番組「[[ラリー・キング・ライブ]]」で、[[自由貿易]]問題について[[ロス・ペロー]]と討論を行った。この討論の後に行われた世論調査では、大部分のアメリカ人が彼の視点に賛成し、[[北米自由貿易協定|NAFTA]]を支持していた。この討論会でのゴアの主張の浸透によって、NAFTAへの加盟案が[[アメリカ合衆国下院|下院議会]]を234対200の僅差で通過したとする者もいた。
[[1993年]]には[[ラリー・キング]]がホストを務める[[CNN]]の番組「[[ラリー・キング・ライブ]]」で、[[自由貿易]]問題について[[ロス・ペロー]]と討論を行った。この討論の後に行われた世論調査では、大部分のアメリカ人が彼の視点に賛成し、[[北米自由貿易協定|NAFTA]]を支持していた。この討論会でのゴアの主張の浸透によって、NAFTAへの加盟案が[[アメリカ合衆国下院|下院議会]]を234対200の僅差で通過したとする者もいた。
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[[2006年]]にアル・ゴアは[[デイビス・グッゲンハイム]]監督の地球温暖化に関する[[ドキュメンタリー映画]]『[[不都合な真実]] (An Inconvenient Truth)』([[ローレンス・ベンダー]]制作、[[パラマウント・ピクチャーズ]]配給)に出演した。この映画は2006年5月24日に[[ロサンゼルス]]・[[ニューヨーク]]・[[バークリー (カリフォルニア州)|バークリー]]・キャンベル・[[サンノゼ]]近郊の限られた映画館で公開された数日後に全国で公開された。映画にはゴアの最近の講演が含まれている他、ゴアの談話と研究が紹介されている。すでにアメリカ国内では600以上の映画館で公開されており、2006年7月現在ではドキュメンタリー映画としては[[アメリカ合衆国]]映画史上3番目の興行成績を収めている。同作は2007年2月に[[第79回アカデミー賞]]の長編ドキュメンタリー映画賞を受賞した。同名の本 (ISBN 1-59486-567-1) も出版している。気象学の専門家は映画に関し、科学的には概ね正確であると評価した<ref>Borenstein, Seth (June 27, 2006). "Scientists OK Gore's Movie for Accuracy". Washington Post. http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/06/27/AR2006062700780.html</ref> 。
[[2006年]]にアル・ゴアは[[デイビス・グッゲンハイム]]監督の地球温暖化に関する[[ドキュメンタリー映画]]『[[不都合な真実]] (An Inconvenient Truth)』([[ローレンス・ベンダー]]制作、[[パラマウント・ピクチャーズ]]配給)に出演した。この映画は2006年5月24日に[[ロサンゼルス]]・[[ニューヨーク]]・[[バークリー (カリフォルニア州)|バークリー]]・キャンベル・[[サンノゼ]]近郊の限られた映画館で公開された数日後に全国で公開された。映画にはゴアの最近の講演が含まれている他、ゴアの談話と研究が紹介されている。すでにアメリカ国内では600以上の映画館で公開されており、2006年7月現在ではドキュメンタリー映画としては[[アメリカ合衆国]]映画史上3番目の興行成績を収めている。同作は2007年2月に[[第79回アカデミー賞]]の長編ドキュメンタリー映画賞を受賞した。同名の本 (ISBN 1-59486-567-1) も出版している。気象学の専門家は映画に関し、科学的には概ね正確であると評価した<ref>Borenstein, Seth (June 27, 2006). "Scientists OK Gore's Movie for Accuracy". Washington Post. http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/06/27/AR2006062700780.html</ref> 。


[[2007年]][[10月12日]]講演や「不都合な真実」での環境啓蒙活動が評価され、[[気候変動に関する政府間パネル|IPCC]]と共に[[ノーベル平和賞]]を受賞することが発表された。
[[2007年]][[10月12日]]講演や「不都合な真実」での環境啓蒙活動が評価され、[[気候変動に関する政府間パネル|IPCC]]と共に[[ノーベル平和賞]]を受賞することが発表された。


現在では1970年代からのライフワークとなっている地球温暖化問題について世界的な啓発活動を行っており、この講演の模様をドキュメンタリー化した『[[不都合な真実]]』は衝撃をもって受け止められた。イギリスでは、後述のように同作の学校での上映差し止めを求める裁判が起こされた。
現在では1970年代からのライフワークとなっている地球温暖化問題について世界的な啓発活動を行っており、この講演の模様をドキュメンタリー化した『[[不都合な真実]]』は衝撃をもって受け止められた。イギリスでは、後述のように同作の学校での上映差し止めを求める裁判が起こされた。
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2007年、「不都合な真実」の学校での上映に反対するグループが、上映差し止めを求める提訴をイギリスの高等法院に起こした。バートン判事は上映差し止めの請求を退け、「内容の大筋は正しい」としたうえで、誇張がみられる9つの問題点を指摘し「注釈をつけて」上映するようにとの判決を下した<ref>[http://www.theguardian.com/environment/2007/oct/11/climatechange?gusrc=rss&feed=networkfront]</ref>。映画では海面上昇が「近い将来」20フィートに及ぶとしているが、科学者の合意では千年以上かかるとされているなどである。(詳細は「[[不都合な真実]]」を参照)
2007年、「不都合な真実」の学校での上映に反対するグループが、上映差し止めを求める提訴をイギリスの高等法院に起こした。バートン判事は上映差し止めの請求を退け、「内容の大筋は正しい」としたうえで、誇張がみられる9つの問題点を指摘し「注釈をつけて」上映するようにとの判決を下した<ref>[http://www.theguardian.com/environment/2007/oct/11/climatechange?gusrc=rss&feed=networkfront]</ref>。映画では海面上昇が「近い将来」20フィートに及ぶとしているが、科学者の合意では千年以上かかるとされているなどである。(詳細は「[[不都合な真実]]」を参照)


[[2009年]]11月3日、『不都合な真実』の続編『われわれの選択』(Our Choice: A Plan to Solve the Climate Crisis)を発表。またイギリス紙デイリーテレグラフによると自身のベンチャーキャピタルの二酸化炭素取引市場太陽光発電電気自動車スマートグリッドなどの環境市場の出資により資産が以前の120万ポンドから6000万ポンドとなり世界初の環境長者になったと報道した<ref>[http://media.yucasee.jp/posts/index/1993?la=0003 『「世界初の環境長者」アル・ゴア氏』]</ref><ref>[http://www.telegraph.co.uk/earth/energy/6491195/Al-Gore-could-become-worlds-first-carbon-billionaire.html Al Gore could become world's first carbon billionaire.] 『アル・ゴアは、世界初のカーボン億万長者になることができました』イギリス紙デイリーテレグラフ 2009年11月3日</ref>。
[[2009年]]11月3日、『不都合な真実』の続編『われわれの選択』(Our Choice: A Plan to Solve the Climate Crisis)を発表。またイギリス紙デイリーテレグラフによると自身のベンチャーキャピタルの二酸化炭素取引市場太陽光発電電気自動車スマートグリッドなどの環境市場の出資により資産が以前の120万ポンドから6000万ポンドとなり世界初の環境長者になったと報道した<ref>[http://media.yucasee.jp/posts/index/1993?la=0003 『「世界初の環境長者」アル・ゴア氏』]</ref><ref>[http://www.telegraph.co.uk/earth/energy/6491195/Al-Gore-could-become-worlds-first-carbon-billionaire.html Al Gore could become world's first carbon billionaire.] 『アル・ゴアは、世界初のカーボン億万長者になることができました』イギリス紙デイリーテレグラフ 2009年11月3日</ref>。


== 2004年アメリカ合衆国大統領選挙 ==
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[[2004年アメリカ合衆国大統領選挙]]では一部にゴアを推す動きがあったものの、結局は出馬せず[[ハワード・ディーン|ディーン]]候補支持にまわった。
[[2004年アメリカ合衆国大統領選挙]]では一部にゴアを推す動きがあったものの、結局は出馬せず[[ハワード・ディーン]]候補支持にまわった。


== 2008年アメリカ合衆国大統領選挙 ==
== 2008年アメリカ合衆国大統領選挙 ==

2020年12月17日 (木) 13:24時点における版

アル・ゴア
Al Gore ノーベル賞受賞者
アル・ゴア(1994年)
生年月日 (1948-03-31) 1948年3月31日(76歳)
出生地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ワシントンD.C.
出身校 ヴァンダービルト大学ロー・スクール中退
ハーバード大学卒業
前職 上院議員
現職 環境活動家
所属政党 民主党
称号 ノーベル平和賞
配偶者 ティッパー・ゴア(1970 - 2010、別居)
子女 カレナ・ゴア
クリスティン・ゴア
サラ・ゴア
アル・ゴア3世
親族 アル・ゴア・シニア(父親・アメリカ合衆国上院議員)
サイン

アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
第45代副大統領
在任期間 1993年1月20日 - 2001年1月20日
大統領 ビル・クリントン

アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
上院議員
選挙区 テネシー州
在任期間 1985年1月3日 - 1993年1月2日

アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
下院議員
選挙区 テネシー州
在任期間 1977年1月3日 - 1985年1月3日
テンプレートを表示
ノーベル賞受賞者ノーベル賞
受賞年:2007年
受賞部門:ノーベル平和賞
受賞理由:人為的気候変動(地球温暖化)についての問題点を広く知らしめ、気候変動防止に必要な措置への基盤を築くために努力したことに対して

アルバート・アーノルド・ゴア・ジュニアAlbert Arnold Gore, Jr.1948年3月31日 - )は、アメリカ合衆国政治家。通称はアル・ゴアAl Gore)。

環境問題の論客として知られる。ビル・クリントン政権にて第45代アメリカ合衆国副大統領を務めた。2000年アメリカ合衆国大統領選挙の全国一斉投票では、共和党の大統領候補であるジョージ・W・ブッシュより得票数で上回ったが、フロリダ州での開票手続きについての問題の後に落選が決定し、政界の表舞台から引退した。その後は環境活動家として活動し、2007年にノーベル平和賞を受賞している。2000年アメリカ合衆国大統領選挙での民主党の大統領候補であった。

生い立ちと家族・人物評

1948年3月31日にアルバート・ゴア・シニアポーリーン・ラフォンの長男としてワシントンD.C.で誕生した。父はテネシー州のベテランの民主党上院議員で、ゴアはワシントンD.C.テネシー州カーセッジで幼少期を過ごした。学生時代ゴア一家はワシントンのホテルに住み、セント・アルバンズ・スクールに通学した。夏季休暇中はカーセッジで暮らし、家族の農場で働いた。

1965年ハーバード大学に入学し、政治学を専攻した。当時の彼のルームメートは後に俳優になるトミー・リー・ジョーンズであった。彼は1969年の6月にハーバード・カレッジをBA(Bachelor of Arts)を取得して卒業した。 1974年ヴァンダービルト大学ロー・スクールに入学したが、1976年に中退。

1970年にメアリー・エリザベス・エイチェソン (ティッパー・ゴア)と結婚した。彼らは高校時代にテネシーのダンスパーティで出会い、結婚後は4人の子供をもうけた。カレナ (1973年8月6日 - , ドルー・シフと1997年から2010年まで結婚していた)、 クリスティン (1977年6月5日 - )、サラ (1979年1月7日 - ) 及びアルバート3世 (1982年10月19日 - )。ゴアには更にワイアット及びアンナ・シフという2人の孫がいる。2010年2月に長年連れ立ったメアリーと離婚することを公表し、別居を始めた。2012年現在は、大口政治資金提供者だったエリザベス(リズ)・キードルと交際中である。

ゴアはナッシュビルの郊外に住み、カーセッジの近くに小さな農場を所有している。一家はカーセッジのニュー・セイレム・ミッショナリーバプティスト教会に通っている。2005年、一家はサンフランシスコのセント・リージスにマンションを購入した。

政歴

1976年の春にロースクールを退学したゴアはテネシー州の選挙区から下院議会選挙に出馬して当選した。3回当選を重ねた後の1984年には下院に出馬せず、上院議会選挙に立候補して当選し、1992年アメリカ合衆国副大統領に選出されるまで務めた。

1988年アメリカ合衆国大統領選挙に出馬するも予備選挙の段階で敗退し、その後マイケル・デュカキス支持に回っている。

1989年4月3日に当時6歳の息子であるアルバートがボルティモア・オリオールズの開幕戦から帰る途中交通事故に遭い、瀕死の重傷を負った。これを受けてゴアは大統領予備選挙に向けてクリントンに対抗する基盤作りよりも、息子の回復を見守ることを選んだ。そしてその間は環境保護を訴える本(『Earth in the Balance』邦題:『地球の掟』)の執筆を行い、それがニューヨーク・タイムズによるベストセラー本のリストに入った。

1991年にはアルバートが提出した高性能コンピュータ法(HPC法)がジョージ・H・W・ブッシュ政権の下で可決され、後のクリントン政権での情報スーパーハイウェイ構想の端緒となった。

彼の企画した情報スーパーハイウェイ構想に刺激されて、インターネットが爆発的に普及したことは有名である。また、クリントン政権の末期にナノテクノロジーに興味を示し、この研究に対して資金援助した。これが、ナノテクノロジーが世界的に注目されるきっかけになった。

副大統領

ホワイトハウスにてビル・クリントン大統領と (1993年8月)

ビル・クリントンは1992年アメリカ合衆国大統領選挙に向けて、1992年7月9日にゴアを副大統領候補に選んだ。大統領選挙に勝利した後、ゴアは1993年1月20日に45代目アメリカ合衆国副大統領に就任した。そして、クリントンと共に1996年アメリカ合衆国大統領選挙にて再選され、2001年1月20日まで2期8年に渡って副大統領を務めた。

在任中ゴアは表舞台には現れなかったが、多くの専門家は、彼をアメリカ合衆国の歴史上最も活動的で多大な影響力を持った副大統領の1人だと考えている。彼の副大統領としての主な業績としてはまず、国家運営の検査と評価が挙げられる。彼は連邦政府の浪費・不正行為などの問題点を指摘し、官僚機構の規模の縮小や規制の撤廃の必要性を強調した。後にこれに関するゴアの改革案[1]が連邦政府の規模縮小に繋がった。

1993年にはラリー・キングがホストを務めるCNNの番組「ラリー・キング・ライブ」で、自由貿易問題についてロス・ペローと討論を行った。この討論の後に行われた世論調査では、大部分のアメリカ人が彼の視点に賛成し、NAFTAを支持していた。この討論会でのゴアの主張の浸透によって、NAFTAへの加盟案が下院議会を234対200の僅差で通過したとする者もいた。

ゴアは副大統領として、全米の学校と図書館をインターネットに接続させる連邦政府プログラム「ユニバーサルサービスプログラム」を立てた。これは、彼がその数年前から練っていた案の集大成であった。実際、上院議員の在職期間中に、ゴアは情報スーパーハイウェイ構想を推進するべく、連邦政府によるコンピューター教育研究センターの設立を要求する法案を提出していた。ゴアの政策のおかげでインターネットの発展は大いに促進された[2]。しかし2000年アメリカ合衆国大統領選挙において、これを自画自賛して「私がインターネットを創った」と発言した[3][4]ことが、自己を過大評価しているとしてブッシュ陣営によるネガティブキャンペーンの材料にされ、敗退の原因の一つになったとみられている。

在職期間の前後を問わず環境保護も強く訴え、世界中を何度も事実調査団として回った。

2000年アメリカ合衆国大統領選挙

2000年アメリカ合衆国大統領選挙では、共和党候補のジョージ・W・ブッシュとの接戦と紆余曲折の末に敗北している(ブッシュ対ゴア事件も参照)。

政治以外の活動

2001年2月、コロンビア大学ジャーナリズム大学院の客員教授及び児童家族政策研究所 (Institute for Child and Family Policy) の客員スカラー就任。 2003年3月19日、アップルコンピュータ取締役に就任。2005年4月4日、ケーブル・テレビ局「カレントTV」を立ち上げると発表した。テレビから離れた若者を対象とし、インターネットとGoogleとビデオ・ブログを駆使した構成になっている。放送開始は2005年8月1日。アメリカ合衆国では、主要ケーブルテレビ局及びディレクTVのデジタル放送チャンネルで配信されている。2013年1月に「カレントTV」はアルジャジーラに買収され、アルジャジーラ・アメリカとなる。買収額500億ドルのうち、ゴアへの譲渡額は100億円であった。これによって、ゴアは産油国であるカタールから巨額の利益を得たという批判があることを認めている。

またグーグルのシニアアドバイザー・カリフォルニア大学ロサンゼルス校フィスク大学ミドルテネシー州立大学の客員教授を務めている。

日本においては、2002年10月に大阪工業大学の創立80周年記念事業の一環として来学記念講演を行い、その際に大阪工業大学名誉博士の称号を授与されている。[5] その後、2008年11月には早稲田大学からも環境保護活動に尽力してきた功績を称え、名誉博士の称号を贈呈されている。 [6]

環境問題

ノーベル平和賞授賞式で講演を行うゴア(2007年12月)

アル・ゴアは大学生の頃に1970年代からロジャー・レヴェル博士の影響で「地球温暖化問題」について関心を持つようになった。またレイチェル・カーソンを尊敬しておりここ数年は、世界中で地球温暖化防止についての関心を高める運動に精力的に参加している。

アル・ゴアはカーボンニュートラルの推進者で、航空機を使用する度にカーボンオフセットを実行している。ゴア自身と家族はハイブリッド車を所有している。

2004年の終わり頃、ゴアは伝統的な利潤の追求に加え、社会や環境に対する責任を負うコーポレートガバナンスを要求する新しい投資のスタイルに対する需要に応えるべく、気候変動など深刻な地球環境問題に対し責任ある立場をとる企業を対象にした投資会社 Generation Investment Management を設立し、同社の会長に就任した。

2006年にアル・ゴアはデイビス・グッゲンハイム監督の地球温暖化に関するドキュメンタリー映画不都合な真実 (An Inconvenient Truth)』(ローレンス・ベンダー制作、パラマウント・ピクチャーズ配給)に出演した。この映画は2006年5月24日にロサンゼルスニューヨークバークリー・キャンベル・サンノゼ近郊の限られた映画館で公開された数日後に全国で公開された。映画にはゴアの最近の講演が含まれている他、ゴアの談話と研究が紹介されている。すでにアメリカ国内では600以上の映画館で公開されており、2006年7月現在ではドキュメンタリー映画としてはアメリカ合衆国映画史上3番目の興行成績を収めている。同作は2007年2月に第79回アカデミー賞の長編ドキュメンタリー映画賞を受賞した。同名の本 (ISBN 1-59486-567-1) も出版している。気象学の専門家は映画に関し、科学的には概ね正確であると評価した[7]

2007年10月12日に講演や「不都合な真実」での環境啓蒙活動が評価され、IPCCと共にノーベル平和賞を受賞することが発表された。

現在では1970年代からのライフワークとなっている地球温暖化問題について世界的な啓発活動を行っており、この講演の模様をドキュメンタリー化した『不都合な真実』は衝撃をもって受け止められた。イギリスでは、後述のように同作の学校での上映差し止めを求める裁判が起こされた。

2007年、「不都合な真実」の学校での上映に反対するグループが、上映差し止めを求める提訴をイギリスの高等法院に起こした。バートン判事は上映差し止めの請求を退け、「内容の大筋は正しい」としたうえで、誇張がみられる9つの問題点を指摘し「注釈をつけて」上映するようにとの判決を下した[8]。映画では海面上昇が「近い将来」20フィートに及ぶとしているが、科学者の合意では千年以上かかるとされているなどである。(詳細は「不都合な真実」を参照)

2009年11月3日、『不都合な真実』の続編『われわれの選択』(Our Choice: A Plan to Solve the Climate Crisis)を発表。またイギリス紙のデイリーテレグラフによると、自身のベンチャーキャピタルの二酸化炭素取引市場・太陽光発電・電気自動車・スマートグリッドなどの環境市場の出資により資産が以前の120万ポンドから6000万ポンドとなり世界初の環境長者になったと報道した[9][10]

2004年アメリカ合衆国大統領選挙

2004年アメリカ合衆国大統領選挙では一部にゴアを推す動きがあったものの、結局は出馬せずハワード・ディーン候補支持にまわった。

2008年アメリカ合衆国大統領選挙

2008年アメリカ合衆国大統領選挙では出馬も噂されたが早々に否定し、バラク・オバマを支持した。

出典

  1. ^ Reinventing Government
  2. ^ インターネットの商用利用前夜において教育機関のネットワークを強化することは、研究者の活動を支援する意図もあったが、一般の人々にネットの恩恵を認知させる上で極めて重要な政策であった。
  3. ^ WIRED.jp 『ゴア副大統領がインターネットの父だって?』 Declan McCullagh 1999年3月12日
  4. ^ 実際の発言は「私は、連邦議会議員任期中に、インターネットを作るために率先して発言したり行動した」(During my service in the United States Congress, I took the initiative in creating the Internet.)
  5. ^ https://www.oit.ac.jp/japanese/international/oit_factsheet.pdf
  6. ^ https://yab.yomiuri.co.jp/adv/wol/news/news_081126.html
  7. ^ Borenstein, Seth (June 27, 2006). "Scientists OK Gore's Movie for Accuracy". Washington Post. http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/06/27/AR2006062700780.html
  8. ^ [1]
  9. ^ 『「世界初の環境長者」アル・ゴア氏』
  10. ^ Al Gore could become world's first carbon billionaire. 『アル・ゴアは、世界初のカーボン億万長者になることができました』イギリス紙デイリーテレグラフ 2009年11月3日

関連項目

外部リンク

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