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==来歴==
==来歴==
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[[東京都]]出身。8人兄弟の7番目で四男。父・幸夫は[[萬朝報]]記者を経て「婦人タイムス」「音楽画報」などを編集発行、その後には作歌指導や[[万葉集]]講義などで生計を立てた。母・千原代志は結婚まで[[伊藤野枝]]のもとで「[[青鞜]]」などに[[小説]]を書いていた。小学生のときから父に[[短歌]]を作らされていた。


[[1948年]]に父のすすめで[[國學院大學]]予科に入学し、[[釈迢空]]の研究室をたびたび訪ね、[[武田祐吉]]の万葉集輪読会に参加。当初は「国民文学」に出詠していたが、[[1949年]]に父に内証で「[[アララギ]]」に入会。[[五味保義]]の指示で[[校正]]等の仕事をする。[[1952年]]から2年間、[[自衛隊]]の前身である[[保安隊]]に入り、情報班に所属。[[1954年]]に、前々からやりたかったという[[数学]]を学ぶために[[東京教育大学]]に入学、「アララギ」発行所に通うようになる。またアララギ学生会「ポポー」を創刊。[[1964年]]に父が死去したの機に、中断した[[国語]]の勉強を続けるために[[東洋大学]]に通う。[[岩波書店]]の外部校正係を経て、[[東洋大学短期大学]]講師となる。[[1967年]]に[[開成中学校・高等学校]]の国語科教諭となり、30年間に渡って勤め、後に[[教頭]]に就任。その後[[2004年]]には[[青稜中学校・高等学校]]の[[校長]]に就任。
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==著書==
==著書==
*『吹雪く尾根 歌集』[[短歌新聞社]], 1983
*『吹雪く尾根 歌集』短歌新聞社, 1983
*『動向 吉村睦人歌集』(昭和歌人集成) 短歌新聞社, 1989
*『動向 吉村睦人歌集』(昭和歌人集成) 短歌新聞社, 1989
*『吹雪く尾根 歌集』(短歌新聞社文庫) 短歌新聞社, 1998
*『吹雪く尾根 歌集』(短歌新聞社文庫) 短歌新聞社, 1998

2021年11月25日 (木) 12:18時点における版

吉村 睦人
(よしむら むつひと)
誕生 (1930-01-26) 1930年1月26日
日本の旗 日本東京都
死没 (2019-12-04) 2019年12月4日(89歳没)
東京都
職業 教員
歌人
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
民族 大和民族
最終学歴 東京教育大学卒業
ジャンル 短歌
文学活動 アララギ派
代表作 『動向』(1989年
『蝋梅の花』(2019年
主な受賞歴 島木赤彦文学賞(2019年
デビュー作 『吹雪く尾根』(1983年
活動期間 1949年 - 2019年
所属 「新アララギ」
ウィキポータル 文学
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吉村 睦人(よしむら むつひと、1930年昭和5年)1月26日 - 2019年令和元年)12月4日[1])は、日本歌人

来歴

東京都出身。8人兄弟の7番目で四男。父・幸夫は萬朝報記者を経て「婦人タイムス」「音楽画報」などを編集発行、その後には作歌指導や万葉集講義などで生計を立てた。母・千原代志は結婚まで伊藤野枝のもとで「青鞜」などに小説を書いていた。小学生のときから父に短歌を作らされていた。

1948年に父のすすめで國學院大學予科に入学し、釈迢空の研究室をたびたび訪ね、武田祐吉の万葉集輪読会に参加。当初は「国民文学」に出詠していたが、1949年に父に内証で「アララギ」に入会。五味保義の指示で校正等の仕事をする。1952年から2年間、自衛隊の前身である保安隊に入り、情報班に所属。1954年に、前々からやりたかったという数学を学ぶために東京教育大学に入学、「アララギ」発行所に通うようになる。またアララギ学生会「ポポー」を創刊。1964年に父が死去したの機に、中断した国語の勉強を続けるために東洋大学に通う。岩波書店の外部校正係を経て、東洋大学短期大学講師となる。1967年開成中学校・高等学校の国語科教諭となり、30年間に渡って勤め、後に教頭に就任。その後2004年には青稜中学校・高等学校校長に就任。

1983年に第一歌集『吹雪く尾根』を刊行し、現代歌人協会賞候補及び短歌公論処女歌集賞受賞。NHK学園短歌講師、武蔵野女子大学講師となる。

1997年の「アララギ」終刊後は、雁部貞夫らと「新アララギ」を創刊し、選者・代表を務めた。「憲法九条を守る歌人の会」呼びかけ人であった。歌集に『動向』(1989年)、『夕暮の運河』(2011年)、『鉄鉛集』(2016年)など。2019年に歌集『蝋梅の花』で第21回島木赤彦文学賞を受賞[2]

著書

  • 『吹雪く尾根 歌集』短歌新聞社, 1983
  • 『動向 吉村睦人歌集』(昭和歌人集成) 短歌新聞社, 1989
  • 『吹雪く尾根 歌集』(短歌新聞社文庫) 短歌新聞社, 1998
  • 『夕暮の運河 吉村睦人歌集』(新現代歌人叢書) 短歌新聞社, 2011
  • 『鉄鉛集 歌集』現代短歌社, 2016
  • 『蠟梅の花 歌集』不識書院, 2018
  • 『動向 歌集』 (現代短歌社文庫) 現代短歌社, 2018

参考文献

  • 現代短歌社文庫『歌集 動向』年譜

脚注