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退屈

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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笑わない王女(ニェスメヤナ)

退屈(たいくつ)は、なすべきことがなくて時間をもてあましその状況に嫌気がさしている様、もしくは実行中の事柄について関心を失い飽きている様、及びその感情である。

ある程度の時間にわたって、興味(好奇心)を持てる感覚的な刺激が得られない状態で、その状態を維持することを求められると、当初はどのようなものかに興味が持てるかもしれないが、その内容に見通しがつき、それが興味を維持できないものであった場合、これに飽きる(あるいは飽きが来るとも言う)。それでも止めることを選択できない場合、それを続けるのが苦痛になる。この状態が退屈である。教科書をただ棒読みするだけの先生の授業を聞いたり、会社での単調な作業はひどく苦痛である。これが退屈という感情である。

退屈は眠気を誘発することがよくあり、まずあくびが出る。そのまま寝入ることを居眠りという。

対処方法

退屈の状態で居続けるのは苦痛なので、感覚や刺激に変化を与えるのは良い対抗策である。自分でそのような刺激を求めてわずかな刺激の変化を求めて行われるものを退屈しのぎという。

例えばつまらない講義講演を聴き続けるのは退屈であるが、それらへの参加を余儀なくされることも多い。その場合、眠くなっても眠るわけにはいかないので、消極的な方法は、膝をつねってみるなど、とにかく寝ないように刺激を与えることである。もっとも積極的な方法はその講師に対して抗議する、あるいは質問をぶつけることだが、それが許されないことも多い。そこで外見には目立たない方法として、落書きをする、私語をする、指遊び鉛筆回しに興じるなどもよく行われる。

運動や作業を行っている場合、それほど負担が少ない単一の活動を単純な繰り返しで行うときに退屈を生じやすい。その意味で歩くのは退屈なことであるが、普通は歩くことで場所が移動するので、周囲の景色が変わるのがよい刺激になる。従って、室内の器具の上で歩くのはかなり退屈である。また、退屈は肉体的疲労感を加速する。単純労働においては、これは作業効率の明確な低下をもたらす。従って、退屈な作業を行う際には、音楽など他の刺激に変化を求めるのがよく行われる。また、時間を分けて作業の種類を取り替えるなどの対策もとられることがある。

退屈の許容

安定した定職や一定の活動だけで生活を維持できる立場を持つものにとって、もっとも退屈なのは日常生活であり得る。日々の営みが毎日同じもの、無難な事象だけであれば、それが苦痛となる場合もある。そういった場合、日常生活に多少の波風を期待する、という場合もある。他方、そのような生活の逆が波瀾万丈というもので、人生に語ることがあまりにも多いのを指す。しかし、実際にはそのような生活をするのは大変であり、退屈な生活はむしろ幸せな状態と見ることもできるだろう。その意味で、退屈を許容することは幸せを知ることでもある。

退屈の価値

一般的には退屈は価値のないものと考えられがちである。しかし、まず生活に余裕がないと退屈は生じない。一瞬一瞬に命がかかる生活では退屈を感じるわけにいかない。その意味で、おそらく狩猟生活などで厳しい生活を送っていた頃の人類には退屈はなかったであろう。満腹して座り込み、顔を上げて星空を見たのが文明の始まりとの言葉もある。退屈はそれを抜け出る方法の模索への意欲を引き起こし、新たな刺激ややり方の模索への動機ともなる。

芸術は感覚的刺激の新しいものを常に模索してきた。後進は先人の技術を継承し守り育てるが、それは似たような作品の拡大再生産となりかねない。その結果、古いものは往々にして退屈と感じられるようになる。したがって、後進はそれを越える何かを探し、その積み重ねがその分野の枠を広げてきた。

お姫様の退屈しのぎ

外出をしないお姫様(王政国の王女など)は毎日が退屈であり、それを解消するために外出し、身分を隠して庶民と接触し、のちに身分を明かす。日本でこれをドラマ化したのが、新さんが庶民生活の中で活躍する八代将軍の時代劇暴れん坊将軍(アメリカにおけるビデオのお題目:The Yoshimune)である。

関連項目