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カール・ブラント

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カール・ブラント(1947)

カール・ブラント(Karl Brandt、1904年1月8日 - 1948年6月2日)はドイツの医師。ドイツの政治家アドルフ・ヒトラーの主治医だった人物。1939年からユダヤ人の安楽死のプログラムを開発し、ウェルナー・ハイデ(de:Werner Heyde)などとユダヤ人を安楽死させた。医学博士号(Dr.med)所持。

経歴

ドイツ帝国帝国直轄州エルザス=ロートリンゲンに属していたエルザス地方のミュールハウゼン(Mülhausen)で生まれる(現在はフランス領である)。ドレスデン大学イェーナ大学フライブルク大学ミュンヘン大学ベルリン大学などに在学して医学を学び、ベルリン大学在学中の1928年に州医師試験に合格した。1929年にフライブルク大学から医学博士号(Dr.med)を贈られる。1930年に医師免許を取得。

1932年3月1日に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)に参加する(党員番号1,009,617)。はじめ突撃隊に入隊。1933年8月15日にヒトラーの副官ヴィルヘルム・ブリュックナーが自動車事故を起こして大けがをした際に彼の手術と看病に当たった。そのことが総統アドルフ・ヒトラーの耳に入り、ヒトラーは彼を医師にしようと決意した。

1934年3月1日に親衛隊に移籍が命じられるとともに、総統付医師(Leibarzt des Führer und ReichsKanzlers)に任命され、ヒトラーのそば近くに仕えるようになった。1934年7月29日に正式に親衛隊に入隊(隊員番号260,353)。1936年から1940年にかけて親衛隊本部に勤務。1939年10月からフィリップ・ボウラーとともにT4作戦の監督にあたった。

しかし1944年10月5日、ハンス・カール・フォン・ハッセルバッハ医師(de:Hans Karl von Hasselbach)とともにテオドール・モレル医学博士がヒトラーに処方していた薬に反対する報告書をヒトラーに提出したことで信任を失い、マルティン・ボルマンから総統付医師職の解任を告げられた。1945年4月16日にはゲシュタポに逮捕されてその翌日に死刑判決を受けるが、数日後、カール・デーニッツの指令で解放される。

戦後、イギリスに逮捕され、アメリカ軍によるニュルンベルク継続裁判医者裁判にかけられ、侵略戦争などの計画、実行と戦争犯罪と非人道的犯罪の罪により有罪となった。死刑判決を受ける。1948年にランツベルク刑務所で他の6人(フィクトル・ブラックde:Viktor Brackヴァルデマール・ホーフェンヴォルフラム・ジーヴァスルドルフ・ブラントカール・ゲープハルトヨアヒム・ムグロウスキーde:Joachim Mrugowsky)と絞首刑に処された。

参考文献

  • Michael D. Miller著『Leaders of the SS & German Police, Volume I』(Bender Publishing)(英語)ISBN 9329700373