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矢作橋

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ファイル:Codazzi deai.jpg
出合之像

矢作橋(やはぎばし)は、愛知県岡崎市を流れる矢作川にかかるであり、橋上を通るのは東海道国道1号線)である。

橋の東の八帖町は八丁味噌で知られ、橋の袂の味噌工場が味噌の香りを漂わせている。

矢作橋は慶長6年(1601年)に土橋として架けられ、その後何度も大水に流され改修を繰り返してきた。現在の矢作橋は東海道に架かっていた橋よりも少し南側に位置し、さらにもう少し南へ下ると名鉄名古屋本線矢作橋駅岡崎公園前駅を結ぶ鉄橋が架かっている。

出合之像

日吉丸(幼い頃の豊臣秀吉)は、八歳の時に奉公に出され、十二歳の時に奉公先の陶器屋から逃げ出した。矢作橋の上で寝ていたところ、付近を荒らしていた野武士の一団が通りかかり、その頭が日吉丸の頭を蹴ったところ日吉丸はこれを咎め、侘びていけと頭を睨みつけた。この頭は海東郡蜂須賀村に住んでいた小六正勝であり、日吉丸の度胸の大きさを買って手下にしたという。

実際には、矢作橋が架けられた1601年には豊臣秀吉は幼少時代どころか既に亡くなっているため、この話は作り話であるとされているが、この逸話を伝えるために矢作橋の西側に「出合之像」という像が建てられた。像の裏側には「平成元年十二月」とある。

出合之像跡

矢作橋周辺の交通渋滞を緩和するために矢作橋は掛け替え工事が計画されている。そのため 2006年2月から出合之像も移動されており、その姿を見ることができない。

※この件の詳細についてはノートを参照


矢作神社

矢竹やぶ。竹の根本にみえるのがうなり石

橋の西の矢作町には、矢作川や矢作橋の名前の元となった矢作神社がある。矢作神社は比較的小さな神社ではあるものの、歴史は古い。

西暦315年頃(景行天皇の時代)日本武尊東夷征伐の折、地元の民から賊の退治を依頼された。日本武尊は矢を作る職人である矢作部たちに矢を作るよう命じた。矢を作るための竹は川の中州にあったが、川の流れは速く、矢作部たちは竹の生えている中州まで行けなかった。そこへ一匹の蝶が現れ人の姿となり竹を切り取ってきた。矢作部たちはこの竹を用いて1万本の矢を作り、日本武尊は素戔嗚尊を祀り、賊を討ち果たしたと伝えられる。この矢竹の一部が矢作神社にある矢竹やぶであり、この故事によりこの神社は矢作神社と呼ばれることになった。

西暦1083年源義家が陸奥守として奥州征伐に向かう途中に、日本武尊の故事にならいこの矢作神社に参拝されたと伝えられる。

西暦1335年新田義貞足利尊氏との戦で戦勝祈願を行った際に、神社の前にあった石が唸った。これを神の加護と信じて戦い、新田義貞が勝利を収めたといわれる。この時の石がうなり石と呼ばれ、矢竹とともに祀られている。

第一次世界大戦後、帝国軍艦矢矧阿賀野級二等巡洋艦4番艦)の艦長以下船員一同が正式参拝し、軍艦矢矧の模型を奉納している。また、軍艦矢矧の艦内には矢作神社の分霊が祀られていた。

このように矢作は古来より戦に縁の深い地名である。