豊多摩刑務所
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豊多摩刑務所 (とよたまけいむしょ) は、大正・昭和を通じて東京府豊多摩郡野方村(中野区新井3丁目)に存在した刑務所。豊多摩監獄や中野刑務所と呼ばれた時代もある。
特に1925年(大正14年)の治安維持法制定以後は思想犯が多数収監された。
四万坪に及ぶ跡地は現在、平和の森公園および法務省矯正研修所東京支所となっている。研修所敷地内に監獄の表門が保存されている。
沿革
- 1910年(明治43年)3月 - 市ヶ谷監獄が手狭になったため起工 (設計後藤慶二)
- 1915年(大正4年)5月 - 竣工
- 1916年(大正5年) - 豊多摩監獄と改称
- 1921年(大正10年) - 豊多摩刑務所(英訳 Toyotama Prison)と改称
- 1923年(大正12年)9月 - 関東大震災により獄舎が倒壊
- 1931年(昭和6年) - 復旧工事完了
- 1945年(昭和20年)5月 - 東京大空襲により全焼,囚人は宮城刑務所へ送致
- 1946年(昭和21年)3月 - GHQ接収、米陸軍刑務所(U.S. Eighth Army Stockade)として使用
- 1956年(昭和31年)9月 - 米陸軍刑務所閉鎖
- 1957年(昭和32年) - 接収解除・返還。中野刑務所(英訳 Nakano Prison)と改称
- 1961年(昭和36年)1月21日 - 刑務官が撲殺され2人の受刑者が脱獄。翌22日、2人とも逮捕された。[1]
- 1983年(昭和58年)3月 - 閉鎖
著名な収監者
- 大杉栄 - 1919年 - 1920年(大正8年-9年)
- 荒畑寒村 - 1926年(大正15年)
- 亀井勝一郎 - 1928年 - 1930年(昭和3年-5年)
- 小林多喜二 - 1930年 - 1931年(昭和5年-6年)
- 三木清 - 1930年(昭和5年)、1945年(昭和20年)獄死
- 中野重治 - 1930年(昭和5年)、1932年 - 1934年(昭和7年-9年)
- 埴谷雄高 - 1932年 - 1933年(昭和7年-8年)、1941年(昭和16年)
- 河上肇- 1933年(昭和8年)(1月に検挙され未決囚として収容、6月に市谷刑務所に移る。刑が確定し、10月から1937年(昭和12年)まで小菅刑務所で服役。)
- 戸田城聖 - 1943年 - 1945年(昭和18年-20年)
脚注
- ^ 【1961年1月21日】 中野刑務所で脱獄 看守を撲殺懐かしの毎日ニュース、2017年2月17日閲覧。