愛新覚羅胤礽
氏族 | アシンギョロ氏 |
名称遷移 | |
康熙20年(1681):胤礽インジョウ(ᡳᠨ ᠴᡝᠩ)[1] | |
雍正元年(1723)?:允礽インジョウ(ᠶᡡᠨ ᠴᡝᠩ)[2] | |
出生死歿 | |
出生年 | 康熙13年(1674) |
死歿年 | 雍正2年(1724) |
爵位官職 | |
康熙14年(1675):皇太子 | |
康熙47年(1708):廃位 | |
康熙48年(1709):皇太子(復位) | |
康熙51年(1712):廃位 | |
親族姻戚 | |
外曽祖父 | ヘシェリ氏ソニン |
大叔父 | ヘシェリ氏ソンゴトゥ |
父 | 玄燁(康熙帝) |
母 | ヘシェリ氏孝誠仁皇后 |
弟 | 胤禛(雍正帝) |
胤礽インジョウは、清聖祖康熙帝の第二皇子。アイシンギョロ氏。雍正帝が即位すると、その名を避諱して允礽インジョウに改名された。
孝誠仁皇后の子として、生まれた時から康熙帝の寵愛を一身に受け、種々の英才教育を施されて十全な皇太子に成長した。太祖ヌルハチから世祖フリン (順治帝) までは立太子が実施されず、世宗胤禛 (雍正帝) 以降は太子密建の制度により、皇帝の死後に次の皇帝が直接指名された為、胤礽は清朝における最初で最後の皇太子である。
しかし、通算30年以上にも及ぶ長い皇太子時代は徐々に胤礽をして即位への焦りを募らしめた。胤礽は素行や生活が荒れ出した挙句、朋党を結成して徐々に小朝廷を築き、大叔父ソンゴトゥの教唆もあって康熙帝と度々衝突した。結局、二度の立太子と二度の廃太子を経て、雍正初頭に幽閉先で死去した。
生前には叙爵されていないが、死後に諡号「理密親王」を雍正帝 (四弟・胤禛) より賜与された。享年50歳。
略年表
康熙13年 (1674) 旧暦5月3日、胤礽出生。同日申時 (15-17時)、生母・孝誠仁皇后が坤寧宮で崩御。[3]
康熙14年 (1675)【1歳】[4]
康熙16年
- 8月:康熙帝が妃ニョフル(鈕祜盧)氏を第二代皇后に冊封 (→孝昭仁皇后)。
康熙21年 (1682)【8歳】
康熙29年 (1690)【16歳】
康熙34年 (1695)【21歳】
康熙42年 (1703)【29歳】大叔父ソンゴトゥ死亡。
康熙47年 (1708)【34歳】
- 9月7日:康熙帝が胤礽の側近数名を処刑、乃至配流。
- 9月16日:康熙帝が京師に到着、胤礽を上駟院の傍に留置、胤禔と胤禛 (→雍正帝) を共同監視役に任命。
- 9月18日:康熙帝が胤礽を咸安宮に幽閉し、皇太子廃位を天神地祇、祖廟に上奏。
- 9月24日:康熙帝が国民に向け正式に皇太子廃位を宣言。
- 9月25日:胤禔が胤礽処刑を暗に進言。
- 10月15日:第三皇子・胤祉が胤禔による胤礽への呪詛を上奏し暴露。
- 11月16日:康熙帝が胤礽を釈放。
康熙48年 (1709)【35歳】
- 2月8日:康熙帝が胤礽ら諸王子を随えて畿内に行幸。
- 3月9日:康熙帝が皇太子復位を天神地祇、祖廟に上奏。
- 3月11日:康熙帝が国民に向け正式に皇太子復位を宣言。
康熙51年 (1712)【38歳】再び廃位され、幽閉。
康熙61年 (1722)【48歳】康熙帝崩御、胤禛 (雍正帝) 践祚。
雍正1年 (1723)【49歳】雍正帝の名を避諱して「允礽」に改名。
雍正2年 (1724)【50歳】幽閉先で死去。諡号は理密親王。
廃太子
康熙47年 (1708) 旧暦9月4日、康熙帝はプルハスタイ (布爾哈蘇台:現内蒙古チャハル地区?) の行宮において、皇太子・胤礽を宗人、官僚らの前で跪かせ、皇太子廃位の詔書を咽びながら宣読した。
朕、太祖、太宗、世祖の弘業を承り、茲に於て四十八年。兢兢業業として臣工を軫いたみ恤あはれみ、百姓を惠み養ひ、惟だ天下を治安するを以て務めと爲す。今、胤礽を觀るに、祖の德に法らず、朕の訓へに遵はず、惟だ惡を肆ほしいままにし、眾を虐げ、暴戾にして淫亂なること、諸口を出で難し。朕二十年包容せり。乃ち其の惡愈張じ、在廷の諸王、貝勒、大臣、官員を僇辱し、威權を專擅し、黨羽と鳩聚し、朕の躬みを窺伺するに起居動作、探聽せざるは無し。朕思ふに國惟だ一主なり。胤礽何ぞ諸王、貝勒、大臣、官員を將て意ひに任せて凌虐し、捶撻を恣行するを得むや。平郡王・訥爾素、貝勒・海善、公・普奇の如くは、俱ともに伊の毆打を被り、大臣、官員、以て兵丁に至るは其の荼毒に遭はざる鮮すくなし。朕此の情を深く悉れり。諸臣に言有りて伊かれの行事に及ぶは、伊即ち其の人を讎視し橫ほしいままに鞭笞を加ふるに因りて、故に朕未だ伊の行事を將て、一詢も諸臣に及ばず。朕陝西、江南、浙江等の處を巡幸するに、或ひは廬舍に駐し、或ひは舟航に御し、未だ嘗て跬步も妄りに出でず、未だ嘗て一事も民を擾せず。乃ち胤礽、伊の屬下の人等と同ともに、乖戾を恣行し、至らざる所無く、朕をして啓齒するに赧らめ令む。又た使ひを遣りて外藩の入貢する人を邀截し、御に進ずる馬匹を將て意ひに任せて攘取し、以て蒙古俱に心服せざるに至れり。種種の惡端、枚舉す可からず。朕尚ほ其の過ちを悔ひ、自ら新むるを冀ねがひ、故に隱忍し優容し今日に至れり。又た朕、胤礽の賦性の奢侈たることを知れば、伊の乳母の父・凌普をして內務府總管と爲さ著しめ、伊をして取用するに便なら俾しめたり。孰なんぞ意おもはむや、凌普更に貪婪を爲し、包衣下人をして怨恨せざる無から使むに致れり。朕胤礽の幼時より、凡そ用ゐる所の物、皆な係これ庶民の脂膏なれば、應まさに節儉に從ふべしと諄諄と教訓をこそすれ、乃ち朕の言に遵はず、奢を窮め欲を極め、其の兇惡を逞しくす。今、更に滋ますます甚だきは、朕の諸子を將て噍類を遺さざるの勢ひ有り、十八阿哥病を患ひて眾皆な朕の年高を以て朕の爲に憂慮せざるは無けれど、伊係これ親兄なれども毫も友愛の意無く、因りて朕加責せば、伊をして反りて忿然と發怒せ讓しむ。更に異す可き者、伊每夜布城に逼近し、縫を裂きて內に向ひ竊視す。從前、索額圖伊を助けて潛かに大事を謀り、朕其の情を悉知すれば、索額圖を將て處死せり。今、胤礽、索額圖の爲に復仇せむと欲し黨羽を結成せり。朕をして未だ、今日鴆せ被るか、明日害に遇ふかを卜せざら令め、晝夜戒慎して寧からず。此の似き人、豈に付あたふるに祖宗の弘業を以てす可きや。且つ胤礽、生れて母を剋したり。此等の人、古に不孝と稱す。朕即位以來、諸事節儉し、身は敝褥を御し、足は布韈を用う。胤礽の用ゐる所、一切朕を遠過し、伊猶ほ以て不足と爲せり。國帑を恣取し、政事に干預すれば、必ず我が國家を敗壞し、我が萬民を戕賊するに致りて後已まむ。若し此の不孝不仁の人を以て君と爲さば、其れ祖業を如何せむ。(以上、『聖祖仁皇帝實錄』巻234 - 康熙47年9月4日/段21353より)
太祖、太宗、世祖の王業を承け継ぎ48年。朕は大臣、官吏らを慈しみ、人民を恵み養い、ただ天下泰平の為に心血を注いできた。しかるに今の皇太子を見ると、先祖の道徳を蔑ろにし、朕の訓戒を黙もだし、ただ悪を恣にして多くの者を虐げ、その残酷で陰険な振る舞いは口にするのも憚られるほどである。20年間大目にみてきたが、宗人や官僚への凌辱、権柄の濫用、朋党の結成、果ては朕の病躯の監視に至るまで、悪行は酷くなるばかりである。国主に非る者が手当たり次第、勝手気儘に他人を侮辱し、暴力を振るうのはどういう了見か。末端の兵卒に至るまでその被害に遭わぬ者はない。実情を上奏した者は仇敵視されて、鞭打ちされる為、朕も迂闊に他の者に尋ねることもできはしない。陝西、江南、浙江などに巡幸する時、朕は粗末な小屋に寝るか、船内に止まるかして片足すら外へ出ることはなく、庶民の生活を邪魔することは決してせぬが、胤礽は取り巻きを引き連れてあちこち足を伸ばしては無礼三昧を働く。恂に口にするのも恥ずかしい。また、外藩蒙古の朝貢者を待ち伏せし、献納の馬を連れ去るなどして、朝貢者を怒らせたこともあった。数々の悪行、枚挙に遑なし。それでも自省し、改悛することを期待して今日まで我慢に我慢を重ねてきた。小さい頃から贅沢であった為、乳母の父にあたる凌普を内務府総管に任命してその入用を管理させようとしたが、あろうことか凌普自身が汚職に染まり、大勢の者の恨みを買った。幼い頃から、宮中のあらゆるものが庶民の汗と涙の賜物であると教え諭し、節約を言い聞かせてきたのに、その贅沢は益々ひどくなっていった。甚しきは、自らの兄弟を人とも思わぬ態度で、十八弟・胤祄 (胤礽の異母弟) が危篤になっても少しも憂えを見せず、あんまりだと言って叱責されると、カッとなって怒り出す。更に異けなるは、毎夜、朕の寝る行宮 (移動式の天蓋式住居) に忍び寄り、その布を匕首で裂いて朕の容態を監視することで、以前、胤礽の大叔父・ソンゴトゥを謀叛の廉で自害させたが、その仇を討とうと胤礽は朋党を結成し、朕は今日毒殺されるか、明日刺殺されるかと昼夜警戒せねばならず、気の鎮まる暇もない。祖先からの王業をこのような者に託してなるものか。胤礽のように、自らの母親の命を奪って生まれたものは古来不孝者と言われる (子貴母死)。朕ですら身につけるものは粗末で、絹など使わぬところを、胤礽は入用に糸目もつけず、それでも足りぬと国庫に手を出し、政治にまで首を突っ込むのであるから、国が破れ、民を滅ぼすまで止まらぬであろう。このような不孝不仁の輩を皇太子にしたら、伝来の王業はどうなるであろうか。
読み終えた康熙帝はあまりの悲しみにその場で崩れおち、大臣らが支えなければ立ち上がれないほどであった。[14]胤礽はその場で拘束され、皇長子・胤禔を監視役につけて京師へ押送された。[14]ソンゴトゥの二人の子・格爾芬、阿爾吉善、及び胤礽の側近・二格、蘇爾特、哈什太、薩爾邦阿には死刑が言い渡され、杜黙臣、阿進泰、蘇赫陳、倪雅漢の四人は盛京 (現遼寧省瀋陽市) へ配流となった。[14]連座さるべき者はあまりにも多く、少しの関与も疑い出せば切りがない。康熙帝は上記の者を断罪すると、それ以外については一律不問とした。[15]宣読をおえた康熙帝は悲哀極まり、京師へ向かう途上、六日間も眠れぬ夜を過ごした。[16]
呪詛騒動
康熙47年 (1708) 旧暦9月4日以来、不眠症に悩まされ続けていた康熙帝は、ふと、胤礽の様子がいつ頃からかおかしくなっていることに気づき、同月11日、内大臣、大学士、翰林官員らを呼び、疑念を吐露した。
近く、胤礽の行事を觀るに、人と同じからざる大いに有りけり。晝は多く沉睡し、夜半に方はじめて食ひ。酒を數十巨觥飲めど醉はず。神明に對越する每に、則ち驚懼し禮を成す能はず。陰雨雷電に遇ひては、則ち畏沮し措ふるまふ所を知ず。居處常を失ひ、語言顛倒し、竟つひに狂易の疾に類にる。鬼物有りて憑く者の似ごとし。[17]
近頃の胤礽はどうも振る舞いにおかしなところがあった。昼に死んだように眠り、夜中に起きてきて飯を食う。酒を大盃で数十杯飲んでも少しも酔いをみせない。神祇祭祀に行かせると変にオドオドして儀礼にならない。雷雨の日には妙にビクビクしている。挙動が変で、言うことも非論理的。精神病者か、悪霊にでも取り憑かれた人のようだ。
同月15日、康熙帝の疑念は徐々に確信の度合いを高めてきた。
胤礽の宮人の居る所、擷芳殿。其の地、陰黯にして不潔なれば、居る者輒すなはち多く病亡す。胤礽、時常其の間を往來し、邪魅に中るに致れど、自ら知覺せず。此を以て之を觀るに、種種の舉動、皆な鬼物の有りて然ら使むる、大そ是れ異事なり。」[18]
胤礽の宮女が居住する擷芳殿 (太和殿の東方) は、陰鬱で不潔で、すぐに病死者がでるところなのに、胤礽は足繁く通いた。邪霊にとり憑かれたのに気づいていないのだ。つまり、以前の諸々の挙動はどれも悪霊の所為なのだ。
同月16日、宮城に到着した康熙帝は、大学士に命じて諸王、ベイレ、および副都統以上の大臣、九卿、詹事、科道官員らを午門内に召集させて言った。
今、忽にはかに鬼魅の爲に憑かれ、其の本性を蔽はれり。忽にはかに起ち忽に坐り、言動常を失ふ。時に鬼魅を見ては、寢處を安んぜず、屢しばしば其の居を遷す。飯を七八碗啖くひて、尚ほ飽くるを知らず、酒を二三十觥飲みて、亦た醉ひを見ず。特ひとり此れのみに匪あらざる也。細かく訊問を加ふるに、更に種種の駭異の事有り。其の近侍に至りては、人員亦た少なからず。其の中、豈に一二の伊の恩遇を受けし者無きや。而して竟に一二の人の心を得る能はざりけり。此を以て之を觀るに、狂疾に非ずば、何を以て是を致すや。[19]
胤礽は突然、悪霊にとりつかれ、本来の人間性が覆い隠されてしまった。立ち上がったと思ったらまた坐ったり、会話していても非論理的で何が言いたいのかわからず、魑魅魍魎をみたと言っては度々寝る場所を換え、飯を八杯も食ったのに空腹を感じ、酒を30杯も大口で煽って酔いを見せず。これだけに止まらず、びっくりすることがまだまだある。そばに仕えるものは何人もいて、その内の少なくとも一人二人は、皇太子から何かしら恩義を享けているだろう。しかし誰一人として胤礽のことを理解も同情もしていない。それは結局、胤礽の振る舞いが精神異常者のそれだからと考える以外にないのではないか。
今や康熙帝の疑念は確信にかわった。しかし今の胤礽を野放図にしてはおけない。康熙帝は上駟院の傍に氈帳を張らせ、そこに胤礽の身柄を収容させた。[19]同月17日には詔勅が作成され、18日、皇太子廃位が神祇と祖廟に上奏されるとともに、胤礽は咸安宮に幽閉、[20]24日には天下万民に向けて正式に皇太子廃位が宣言された。
しかし翌10月15日、第三皇子・胤祉の上奏により、皇長子・胤禔が廃位されたばかりの胤礽に呪詛をかけていたことが露顕した。胤祉の牧馬場にいたとある蒙古人ラマは、幼い頃から医術を習い、呪術に長けていた。それを知った胤禔がこのラマを含めた三人のラマとしばしば鳩合するようになったことから、胤祉は不審に感じるようになった。そしてそれをきいた康熙帝が、三人のラマらを拘束して事情を調査させたところ、ラマの供述から胤禔の計画が露顕し、ラマのいう通りに十数箇所を掘ってみると、果たして地中から呪術に使われる道具がみつかった。[21]
親族姻戚
母祖
曽祖父
大叔父
- ヘシェリ氏ソンゴトゥ:孝誠仁皇后の叔父。康熙朝で権勢を振るったが、謀叛が露顕し、康熙帝の命で自害。
母
- ヘシェリ氏孝誠仁皇后:康熙帝の初代皇后。胤礽を分娩し間も無く崩御。
妻妾
正室
子孫
康熙61年に胤禛 (雍正帝) が践祚すると、允礽 (胤礽から改名) の子・弘晳は理郡王に冊封された。雍正2年に父・允礽が逝去し、同6年には親王に陞叙された。しかし乾隆4年、弘晳は自らを以て「東宮嫡子」(正統継承者) とした為、弘暦 (乾隆帝) により爵位を剥奪された。その後、允礽の第十子・弘㬙[22]が郡王を承襲し、45年に薨去すると、その子・永曖がベイレを承襲。その子孫は一つずつ品級を落としながら、最終的に輔国公を世襲し、仍孫の毓炤に至る。[11]
その外、允礽の第三子・弘晋、第六子・弘曣[23]、第七子・弘晀[24]、第十二子・弘晥が輔国公に冊封されている。弘曣[23]の子・永瑋は父の輔国公を承襲し、乾隆年間に宗人府左宗正、広州・黒龍江・盛京将軍を歴任した。弘㬙[22]の子・永曖の玄孫・福錕不詳は、光緒年間に体仁閣大学士に任命されている。[11]
以下は全て『清史稿』巻164に拠る。また、それぞれの爵位名称については「清代の爵位」を参考されたし。
- 子・弘晳:第二子。雍正元年に理郡王に叙爵。6年に理親王に陞叙。乾隆4年に爵位剥奪。
- 子・弘晋:第三子。康熙56年歿。輔国公として殯葬。
- 孫・永璥:弘晋の第三子。乾隆元年に輔国公に叙爵。52年歿。
- 子・弘曣[23]:第六子。雍正6年に輔国公に叙爵。乾隆15年歿、諡号は恪僖。
- 子・弘晀[24]:第七子。雍正12年に輔国公に叙爵。乾隆34年に爵位剥奪。
- 子・弘㬙[22]:第十子。乾隆元年に輔国公に叙爵。4年に理郡王を承襲。45年薨去、諡号は恪。
- 孫・永曖:弘㬙[22]の第一子。乾隆35年に三等輔国将軍に叙爵。45年にベイレを承襲。53年歿。
- 曾孫・綿溥:永曖の第二子。乾隆54年にベイセを承襲。嘉慶6年歿。
- 玄孫・奕灝:綿溥の第一子。嘉慶6年に鎮国公を承襲。道光10年に爵位剥奪。18年に輔国公を承襲、後に再び剥奪。
- 来孫・載受:奕灝の第一子。道光11年に輔国将軍に叙爵。28年歿。
- 昆孫・福存:載受の第二子。道光29年に奉国将軍を承襲。光緒14年歿。
- 仍孫・毓均:福存の子。光緒15年に奉恩将軍を承襲。宣統元年歿、無嗣。
- 昆孫・福存:載受の第二子。道光29年に奉国将軍を承襲。光緒14年歿。
- 来孫・載寬:奕灝の第三子。道光10年に輔国公を承襲。18年歿。
- 来孫・載岱:奕芝の子 (奕灝の族甥)。道光19年に奕灝の輔国公を承襲。同治13年歿。
- 昆孫・溥豊:載岱の第一子。道光30年に二等輔国将軍に叙爵。光緒元年に輔国公を承襲。22年歿。
- 仍孫・毓炤:溥豊の第四子。光緒22年に輔国公を承襲。
- 昆孫・溥盛:載岱の第二子。道光元年に二等輔国将軍に叙爵。光緒17年に疾病のため辞退。22年歿。
- 昆孫・溥徵:載岱の第三子。咸豊7年に輔国将軍に叙爵。光緒15年歿。
- 仍孫・毓鏛[27]:溥徵の子。光緒16年に奉国将軍を承襲。
- 昆孫・溥銳:載岱の第六子。光緒12年に一等奉国将軍に叙爵。21年歿、無嗣。
- 昆孫・溥豊:載岱の第一子。道光30年に二等輔国将軍に叙爵。光緒元年に輔国公を承襲。22年歿。
- 来孫・載受:奕灝の第一子。道光11年に輔国将軍に叙爵。28年歿。
- 玄孫・奕魁:綿溥の第二子。嘉慶14年に三等鎮国将軍に叙爵。23年歿。
- 来孫・載鏽:奕魁の子。嘉慶23年に輔国将軍を承襲。道光7年歿、無嗣。
- 玄孫・奕灝:綿溥の第一子。嘉慶6年に鎮国公を承襲。道光10年に爵位剥奪。18年に輔国公を承襲、後に再び剥奪。
- 曾孫・綿溥:永曖の第二子。乾隆54年にベイセを承襲。嘉慶6年歿。
- 孫・永育:弘㬙[22]の次子。乾隆40年に三等奉国将軍に叙爵。59年歿。
- 曾孫・綿澐:永育の第三子。乾隆60年に奉恩将軍を承襲。咸豊8年歿。
- 玄孫・奕堂:綿澐の第三子。咸豊8年に奉恩将軍を承襲。光緒14年歿。
- 来孫・載鈺:奕堂の第二子。光緒14年に奉恩将軍を承襲。
- 玄孫・奕堂:綿澐の第三子。咸豊8年に奉恩将軍を承襲。光緒14年歿。
- 曾孫・綿澐:永育の第三子。乾隆60年に奉恩将軍を承襲。咸豊8年歿。
- 孫・永準:弘㬙[22]の第五子。乾隆55年に一等輔国将軍に叙爵。嘉慶22年歿、無嗣。
- 孫・永曖:弘㬙[22]の第一子。乾隆35年に三等輔国将軍に叙爵。45年にベイレを承襲。53年歿。
- 子・弘晥:第十二子。乾隆3年に輔国公に叙爵。40年歿。
- 孫・永浩:弘晥の第二子。乾隆40年に「不入八分輔国公」を承襲。43年歿。
逸話
- 仏人宣教師のブーヴェ (漢名:白晋) は、自著『康熙帝傳 (原題:PORTRAIT HISTORIQUE DE L'EMPEREUR DE LA CHINE)』の中で若き日の皇太子・胤礽を「十全十美」(完全無缺) と称賛した。実際、当時の胤礽は文武両道に優れ、母語の満洲語のみでなく漢籍にも精通していた。[28]
- 李氏朝鮮『肅宗實錄』には、堕落してからの胤礽に「陰烝諸妹」の悪習があったという記載がある。[29]「烝」は「自分より身分の高い女と私通する」[30]ことで、ここでは康熙帝の嬪妃、つまり胤礽にとっての母妃[31]との姦通を指す。それも「諸妹」、即ち複数人である。その裏附けとして姫路獨協大学教授・楊啓樵[32]は、『聖祖仁皇帝實錄』の「朕……從不令外間婦女出入宮掖、亦從不令狡好少年隨侍左右。……今、皇太子所行若此、朕實不勝憤懣。」[33]を挙げている。[34]また、中華人民共和国のテレビドラマ『雍正王朝』(1999年, 主演:唐国強) には胤礽 (役:徐敏) が康熙帝妃・鄭春華 (役:武曄) と私通する場面がある。尚、鄭春華という人物は実在しない。
- 一説には、康熙帝妃との姦通以外に、胤礽には断袖 (男色) の趣味もあったとされ、「紅学」(『紅樓夢』学) 研究者の中にその提唱者がある。[35]皇太子廃位の勅書では、ソンゴトゥの子二人を処刑した外、具体的な理由も明かされることなく二格、蘇爾特、哈什太、薩爾邦阿の四名が同じく処刑、更に杜黙臣、阿進泰、蘇赫陳、倪雅漢の四名が盛京ムクデンに配流されている。[14]殊に後者四名については、「其れ杜默臣ら四人、朕の心之を疑ひ、故に盛京へ充發せり。然れど、伊かれら大惡の款無し。果して大惡有らば、已に早く誅戮の列に在るらむ。」[15]と見え、康熙帝が「疑っている」という以外に理由が書かれていない。
- 清末民初の教育家・蔡元培は自著『石頭記索隱』の中で、『紅樓夢』の主人公・賈宝玉と胤礽との関聯性を比較考証している (一説に胤礽は賈宝玉のモデルとされる)。
脚注・参照先
- ^ 参考:漢文 [胤礽], 拼音 [yìnréng], 満文 [ᡳᠨ ᠴᡝᠩ], 転写 [in ceng]。拼音が réng で満文転写が ceng なのはおかしい気もするが、まだ検証できていない為、ひとまづは記事修正前の情報を引用した。
- ^ 参考:漢文 [允礽], 拼音 [yǔnréng], 満文 [ᠶᡡᠨ ᠴᡝᠩ], 転写 [yün ceng]。拼音が réng で満文転写が ceng なのはおかしい気もするが、まだ検証できていない為、ひとまづは記事修正前の情報を引用した。
- ^ “康熙13年5月3日段11310”. 聖祖仁皇帝實錄. 47. 不詳
- ^ 参考:中国では古くより週歳 (満年齢) と虚歳 (数え年) を併用している。康熙帝は『聖祖仁皇帝實錄』巻56, 康熙14年6月6日の記事において「朕荷天眷、誕生嫡子、已及二齡。」と語っているが、胤礽は康熙13年5月に出生している為、「二齡」は虚歳の二歳である。尚、本章「略年表」における【 】内の年齢は満年齢。
- ^ “康熙14年12月13日段11806”. 聖祖仁皇帝實錄. 58. 不詳
- ^ “康熙14年12月14日段11807”. 聖祖仁皇帝實錄. 58. 不詳
- ^ “康熙21年2月15日段13706”. 聖祖仁皇帝實錄. 101. 不詳
- ^ “康熙29年7月14日段16277”. 聖祖仁皇帝實錄. 147. 不詳
- ^ “康熙29年7月18日段16281”. 聖祖仁皇帝實錄. 147. 不詳
- ^ “康熙29年7月24日段16287”. 聖祖仁皇帝實錄. 147. 不詳
- ^ a b c d “諸王六 (理密親王允礽)”. 清史稿. 220. 清史館
- ^ a b c 参考:维基百科「瓜尔佳氏 (允礽)」より引用。
- ^ “康熙34年6月9日段17555”. 聖祖仁皇帝實錄. 167. 不詳
- ^ a b c d “康熙47年9月4日段21353”. 聖祖仁皇帝實錄. 234. 不詳
- ^ a b “康熙47年9月7日段21356”. 聖祖仁皇帝實錄. 234. 不詳
- ^ “康熙47年9月9日段21358”. 聖祖仁皇帝實錄. 234. 不詳
- ^ “康熙47年9月11日段21360”. 聖祖仁皇帝實錄. 234. 不詳
- ^ “康熙47年9月15日段21364”. 聖祖仁皇帝實錄. 234. 不詳
- ^ a b “康熙47年9月16日段21365”. 聖祖仁皇帝實錄. 234. 不詳
- ^ “康熙47年9月18日段21367”. 聖祖仁皇帝實錄. 234. 不詳
- ^ “康熙47年10月15日段21388”. 聖祖仁皇帝實錄. 235. 不詳
- ^ a b c d e f 参考:弘㬙 (日偏に爲)。「㬙」は「暐」の異体字。光り輝く様。
- ^ a b c d 参考:弘曣 (日偏に燕)。「曣」は「晏」の異体字。空に雲がなく霽れ渡った様。
- ^ a b c d e 参考:弘晀 (日偏に兆)。「晀」は「晁」の異体字。夜明けの意。
- ^ a b 参考:永砇 (石偏に文)。「砇」は「珉」の異体字。美しい石の意。
- ^ a b 参考:綿𤫬 (瓜繞+丰)。「𤫬」の字については不詳。
- ^ 参考:毓鏛 (金偏に常)。「鏛」は「鋿」の異体字。みがく意。
- ^ 3. “「雍正簒位」再考”. 史林: 117.
- ^ “肅宗35年 (1709) 3月23日段104502”. 朝鮮王朝實錄. 47. 不詳
- ^ “烝 ジョウ ㊀-⑥”. 新字源. 角川書店
- ^ 参考:「母妃」の「母」は必ずしも実母ではなく、母の世代の意で、また実際の年齢とも関係なく、父たる康熙帝の側室、即ち母の世代の意味。
- ^ 引用:「……楊啓樵氏は、現在姫路濁協大學教授であり、『雍正帝及其密摺制度』の研究で京都大學…(中略)…文學博士…(中略)…を取得した清朝雍正帝研究の第一人者である。氏が雍正帝研究を本格的に始めたのは、1966年京都大學に留學し當時人文科學研究所で行なわれていた「雍正珠批論旨研究班」に参加した時からで…(中略)…この班を主催していた故宮崎市定博士、佐伯富博士の指導を受け…(後略)…。」(『東洋史研究』巻60, 号2, 2001, 大谷敏夫「<批評・紹介>楊啓樵著『掲開薙正皇帝隠秘的面紗』」)
- ^ “康熙47年9月9日段21358”. 聖祖仁皇帝實錄. 234. 不詳
- ^ “<研究ノート>「雍正簒位」再論”. 史林: 119-120.
- ^ “歷史上太子胤礽:荒淫如此,難怪康熙將其兩次廢黜” (中文). 每日頭條 (2005年). 2024年1月14日閲覧。
参照文献
書籍
学術論文
- 「史林」巻70, 号6, 史学研究会, 1987, 楊啓樵「<研究ノート>『雍正簒位』再論」
Webサイト
関聯ページ
参考
Wikipeida
- 「清代の爵位」