1978年の日本ハムファイターズ
1978年の日本ハムファイターズ(1978ねんのにっぽんハムファイターズ)では、1978年の日本ハムファイターズの動向をまとめる。
1978年の日本ハムファイターズ | |
---|---|
成績 | |
パシフィック・リーグ3位 年間3位:55勝63敗12分 勝率.466 後期4位:26勝32敗7分 勝率.448 前期3位:29勝31敗5分 勝率.483[1] | |
本拠地 | |
都市 | 東京都文京区 |
後楽園球場 | |
球団組織 | |
オーナー | 大社義規 |
経営母体 | 日本ハム |
監督 | 大沢啓二 |
« 1977 1979 » |
このシーズンの日本ハムファイターズは、大沢啓二監督の3年目のシーズンである。
概要
編集就任3年目に向けて「今年こそAクラス入りする」と意気込む大沢監督は南海から柏原純一を、大洋から間柴茂有と杉山知隆をそれぞれ交換トレードで獲得するなど戦力再編に着手した。投手陣では、それまでのダブル高橋(高橋直樹・高橋一三)に加え、野村収との交換で獲得した間柴や前年広島から移籍の佐伯和司など先発陣が充実。打撃陣でもルーキーの古屋英夫が三塁のレギュラーを獲得し、また1年目から一軍に出場していた島田誠は富田勝とともに1・2番コンビを形成していった。移籍1年目の柏原純一が開幕から4番を打って24本塁打を放ち、日本ハム球団初のAクラスに貢献するなど1981年の優勝メンバーが投打の中心となった。チームは前期・後期を負け越しながらも、ロッテの15連敗に助けられて3位で終了した(この年は前期が3位、後期が4位)。東映時代の1967年以来11年ぶり、そして日本ハムとなって5年目でのAクラス入りとなった。先発投手陣のうち佐伯が13勝、杉山が2桁こそ逃したものの9勝、間柴が7勝ながら防御率3点台後半と健闘し、抑えの村上雅則も活躍したが、前年17勝の高橋直が9勝、高橋一がわずか2勝と誤算が続出。打線ではボビー・ミッチェルが36本塁打を打って初の本塁打王に輝いたが、大砲として期待された新外国人ジーン・ロックレアも不調にあえいだ。
チーム成績
編集レギュラーシーズン
編集1 | 三 | 富田勝 |
---|---|---|
2 | 中 | 島田誠 |
3 | 一 | 柏原純一 |
4 | 左 | ミッチェル |
5 | 指 | 永淵洋三 |
6 | 捕 | 加藤俊夫 |
7 | 右 | 村井英司 |
8 | 二 | 中村国昭 |
9 | 遊 | 菅野光夫 |
投手 | 佐伯和司 |
|
|
順位 | 球団 | 勝 | 敗 | 分 | 勝率 | 差 |
1位 | 阪急ブレーブス | 82 | 39 | 9 | .678 | 優勝 |
2位 | 近鉄バファローズ | 71 | 46 | 13 | .607 | 9.0 |
3位 | 日本ハムファイターズ | 55 | 63 | 12 | .466 | 25.5 |
4位 | ロッテオリオンズ | 53 | 62 | 15 | .461 | 26.0 |
5位 | クラウンライターライオンズ | 51 | 67 | 12 | .432 | 29.5 |
6位 | 南海ホークス | 42 | 77 | 11 | .353 | 39.0 |
*阪急が前後期完全優勝したため、プレーオフは行わずそのまま年間優勝[1]
オールスターゲーム1978
編集詳細は「1978年のオールスターゲーム (日本プロ野球)」を参照
ファン投票 | 高橋直樹 | 加藤俊夫 | 柏原純一 | 富田勝 | ミッチェル | 千藤三樹男 | ||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
監督推薦 | 佐伯和司 |
- 取り消し線は出場辞退
できごと
編集この節の加筆が望まれています。 |
選手・スタッフ
編集表彰選手
編集リーグ・リーダー[1] | |||
---|---|---|---|
選手名 | タイトル | 成績 | 回数 |
ミッチェル | 本塁打王 | 36本 | 初受賞 |
ベストナイン | ||
---|---|---|
選手名 | ポジション | 回数 |
柏原純一 | 一塁手 | 初受賞 |
ダイヤモンドグラブ賞 | ||
選手名 | ポジション | 回数 |
柏原純一 | 一塁手 | 初受賞 |
ドラフト
編集詳細は「1978年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)」を参照
順位 | 選手名 | ポジション | 所属 | 結果 |
---|---|---|---|---|
1位 | 高代延博 | 内野手 | 東芝 | 入団 |
2位 | 工藤幹夫 | 投手 | 本荘高 | 入団 |
3位 | 井上晃二 | 内野手 | 別府大学附属高 | 入団 |
4位 | 国沢道雄 | 投手 | 伊野商業高 | 入団 |