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太平洋戦争後の八本山とその末寺の動きは次のとおり{{Sfn | 本間裕史 | 1995 | pp = 63-64 | ps=-但し、1950年(昭和25年)に京都要法寺が単立となり日蓮本宗と称したこと下条妙蓮寺が日蓮宗より日蓮正宗へ帰属したこと、1957年(昭和32年)に西山本門寺が単立になったこと保田妙本寺が日蓮宗より日蓮正宗へ帰属したこと、論文執筆時点で北山本門寺と小泉久遠寺が日蓮宗に包括されていること富士大石寺と下条妙蓮寺が日蓮正宗に包括されていること西山本門寺が単立であること、同時点で日蓮宗に所属する旧本門宗末寺数が北山本門寺末36か寺小泉久遠寺末4か寺柳瀬実成寺末4か寺下条妙蓮寺末1か寺保田妙本寺末9か寺京都要法寺末34か寺西山本門寺末12か寺であることのみ}}。
太平洋戦争後の八本山とその末寺の動きは次のとおり{{Sfn | 本間裕史 | 1995 | pp = 63-64 | ps=-但し、1950年(昭和25年)に京都要法寺が単立となり日蓮本宗と称したこと下条妙蓮寺が日蓮宗より日蓮正宗へ帰属したこと、1957年(昭和32年)に西山本門寺が単立になったこと保田妙本寺が日蓮宗より日蓮正宗へ帰属したこと、論文執筆時点で北山本門寺と小泉久遠寺が日蓮宗に包括されていること富士大石寺と下条妙蓮寺が日蓮正宗に包括されていること西山本門寺が単立であること、同時点で日蓮宗に所属する旧本門宗末寺数が北山本門寺末36か寺小泉久遠寺末4か寺柳瀬実成寺末4か寺下条妙蓮寺末1か寺保田妙本寺末9か寺京都要法寺末34か寺西山本門寺末12か寺であることのみ}}。


* 富士大石寺は、戦前より継続し日蓮正宗総本山として帰属
* 富士大石寺は、日興の時代より継続し、開基檀那南条時光の寺院である日蓮正宗総本山としてその伝統を相承している
* 下条妙蓮寺とその旧末6か寺は、1950年12月(昭和25年)日蓮正宗に合流。残る旧末1か寺も[[1960年]](昭和35年)に日蓮正宗に合流。旧末1か寺は、戦前より継続して日蓮宗に帰属。
* 下条妙蓮寺とその旧末6か寺は、1950年12月(昭和25年)日蓮正宗に合流。残る旧末1か寺も[[1960年]](昭和35年)に日蓮正宗に合流。旧末1か寺は、戦前より継続して日蓮宗に帰属。
* 北山本門寺は、[[興統法縁会]]の縁頭寺として戦前より継続して日蓮宗に帰属し、同会を再編・存続。旧末36か寺も戦前より継続して日蓮宗に帰属。
* 北山本門寺は、[[興統法縁会]]の縁頭寺として戦前より継続して日蓮宗に帰属し、同会を再編・存続。旧末36か寺も戦前より継続して日蓮宗に帰属。

2015年7月6日 (月) 08:32時点における版

富士門流(ふじもんりゅう)は、宗祖日蓮の高弟「六老僧」の一人、日興の法脈を継承する門流のこと[1]日興門流とも呼ばれる[1][2]

教義

所依の経典・法華経に対する解釈では(本迹)勝劣派の立場に属する[3][4][5][注釈 1]。本仏論では興門八本山のうち、西山本門寺保田妙本寺北山本門寺(重須本門寺)・小泉久遠寺柳瀬実成寺京都要法寺の六寺は釈尊本仏論を主張している[要出典]富士大石寺下条妙蓮寺の二寺は日蓮本仏論を主張している[6][7][8]

弟子と寺院

師弟・寺院関係は次のとおりであり[9]、単一の宗派として組織されていない。

日興日目
│├日道---富士大石寺-----日蓮正宗
│└日郷
│ │├---小泉久遠寺-----日蓮宗
│ │└---保田妙本寺-----単立
│ └日叡-日向定善寺-----日蓮正宗
├─日尊---京都要法寺-----日蓮本宗、日蓮宗
├日華
│├日相---下条妙蓮寺-----日蓮正宗
│└日仙---讃岐本門寺-----日蓮正宗
├日代-----西山本門寺-----法華宗興門流
├日妙-----北山本門寺-----日蓮宗
├日澄-----北山本門寺談所-日蓮宗
└──日満-阿仏妙宣寺-----日蓮宗

門流展開の拠点としては、富士大石寺(日蓮正宗)・下条妙蓮寺(日蓮正宗)・北山本門寺(日蓮宗)・小泉久遠寺(日蓮宗)・西山本門寺(単立、法華宗興門派)があり、これを富士五山といい、これに伊豆実成寺(日蓮宗)・保田妙本寺(単立)・京都要法寺(日蓮本宗)を加えて興門派八ヵ本山という[10]

歴史

古くから富士方・富士門跡と称した[2]

鎌倉時代・建武の新政

1282年弘安5年)の宗祖滅後、門祖は久遠寺の輪番を軸に駿河を中心として甲斐・伊豆方面を布教[11][2]。同じく六老僧の一人日向や、門祖の教化により入信したにも拘らず日向を師と選択した波木井実長と対立した門祖[12]は、1288年正応元年)身延の山を降りた[2][13](身延離山)。この背景には、波木井実長が宗祖の禁じた九品念仏の道場建立を行ったことが考えられる。

日蓮正宗では、『身延山付嘱書』(別付嘱書・池上相承とも。二箇相承の一。)を根拠として、門祖が宗祖滅後から身延離山まで7年間身延山久遠寺別当を務めた、と主張している[14][15][16]。この二箇相承書については、徳川家康が駿府城で実物を見たと複数記録されており、『駿府政事』にも記録されている。しかし、日蓮宗は、同書を偽書とし[17][18]、同主張を是としていない[注釈 2]。また、日蓮正宗では、門祖は身延離山の際宗祖御灰骨など一切を携えて下山した[19][20]とするが、日蓮宗はこれに反駁を加えている[21]

身延離山後の1289年正応2年)、門祖は地頭南条時光の招きにより持仏堂(後の下之坊)に移った[22]。翌1290年(正応3年)、門祖は南条時光の大石ヶ原寄進によって大石寺を建てた[2][22]

1298年永仁6年)、足かけ10年過ごした大石寺を日目にまかせ、日興は地頭石川孫三郎能忠[注釈 3]の招きにより重須へ移住する[23]。ここに北山本門寺を開山し、談所を設け、35年間に渡って教線を張り、子弟を育成する[24][25]。門祖は、本六人(日目・日華・日秀日禅・日仙・日乗)・新六人(日代・日澄・日道・日妙・日郷・日助)と称せられる弟子を育成した。その外に久成房日尊がいる。日目は富士大石寺を継承、日華は下条妙蓮寺を創立、日尊は上行院(後の京都要法寺)を開山、日目の弟子日郷は大石寺東御堂の蓮蔵坊の名跡を移し分立(今日の小泉久遠寺)・房州保田妙本寺を開基、日郷に折伏されたとする薩摩法印(日叡)は日向定善寺を中心に弘教に専念する。

日蓮正宗では、『日興跡条々事』を基に、門祖から日目へ唯授一人の血脈相承があった、としている[26]。日蓮宗辞典には「日興が院主、日向が学頭」と記されているが、なぜか日蓮宗は血脈相承を認めていない[27]。さらに、五老僧が『天台沙門』と自ら名乗り、「念仏者追放宣旨御教書事」にある宗祖と異なる精神で布教しているため、宗祖とは完全に異なる路線を日蓮宗は歩み始める。

1333年元弘3年、正慶2年)、門祖は重須で遷化(逝去)した。翌1334年建武元年)、大石寺上蓮坊において、本六人・日仙と新六人・日代が方便品読不読論を論争した結果、日代と日満は重須を去る。この後、日代は西山本門寺を興し、日満は佐渡一谷の妙照寺を開基している[28]

室町・安土桃山時代

関東では、富士大石寺が、北山本門寺と「伝統の正潤」[29]を、保田妙本寺と「戒壇の坊地問題」[29]を、それぞれ争う。また、北山本門寺は、西山本門寺と「本門寺伝統論」[30]を争ったが、西山本門寺は富士大石寺と組んで、これに対抗した。一方、関西では上行寺・住本寺も対峙していた。そこで、日辰は上行寺・住本寺を合併。さらには関東寺院の調停を行い一定の成果を上げるも、日辰が「釈迦仏造立・法華経一部読誦論」という日興からの伝統と異なる主張をしたため、大石寺第十三世法主日院がこれを容れず、富士大石寺に関わる調停は失敗に終わる[31]

関東系が日隆門流の教学(八品教学)に影響されたのに対し、関西系はそれを排斥した[32]。富士大石寺第9世日有は中興の祖と仰がれている[33]。日有の教学は富士大石寺のそれまでのものとは一線を画し、日隆門流のそれに拠るところがある[30]。即ち、当時富士門流に芽生え始めていた日蓮本仏論思想を日隆の種脱論に依って基礎付けようとしたところである[34]。また、保田妙本寺第11世三河日要は日蓮本仏論を説いた[35]。一方、日要が当時風靡していた日隆門流の教学に影響を受けたのとは対照的に、同寺第14世日我は、同教学を批判したが、日蓮本仏論を強調した点は軌を一にする[36]。この日我と前述の日辰は、富士門流の教学を確立せんとしたため、後世、「東我西辰」と称されるに至っている[37]

日蓮正宗では、日蓮本仏論はこの時期の成立ではなく、「法華初心成仏抄」により宗祖が明かした、としている[38]

江戸時代

日辰の輩出した子弟により、彼らの属する日尊門流は、江戸時代前期における富士門流教学の主流を占めた[39]

しかしながら、その後、富士大石寺に日寛(第26世法主)が現れる。日寛は、一致派・日隆門流・日尊門流(京都要法寺)の教学に対抗して、富士大石寺教学の確立を図る。これが功を奏し、富士門流教学の主流は京都要法寺から富士大石寺に移った[7]。すなわち、『六巻抄』の著作により、富士大石寺の教学は大成されたと言える[40]。日寛は、第9世日有同様、中興の祖と仰がれるに至る[41]

明治

1870年明治3年)時点での富士門流の本山塔中・末寺の数は、以下のとおり[42]。ただし、京都要法寺のみ1786年天明6年)[注釈 4]の数値。

寺坊数
本山塔中 末寺 その他
富士大石寺 16 39 9(末寺塔中・孫末)
下条妙蓮寺 7 6
北山本門寺 6 27 11(讃岐本門寺関係)
小泉久遠寺 3 3
西山本門寺 6 16
伊豆実成寺 2 4
保田妙本寺 2 8 27(日向方面)
京都要法寺 83

明治政府が一宗一管長制を打ち出したのを受け、1872年明治5年)富士門流は他の日蓮を宗祖とする門流と合同し、日蓮宗を形成した[43]。しかし、行政的にも無理があり、2年後の1874年(明治7年)には各派別に管長を置くことが許される[44]。日蓮宗は、日蓮宗一致派日蓮宗勝劣派に分かれ、富士門流は勝劣派に属した(勝劣五派[注釈 5])。さらに2年後の1876年(明治9年)、富士門流は興門派八ヵ本山とその末寺からなる日蓮宗興門派を組織し[45]、勝劣派から分離。1899年(明治32年)には本門宗と改称した[46][47]

そのような中、1900年(明治33年)大石寺が内務省への分離独立請願を結実させ、「日蓮宗富士派」として本門宗から独立[48][49][45][50][51][52]1912年(明治45年)6月に日蓮正宗と改称[53][49][54][55]して現在に至る[注釈 6][56][57]

太平洋戦争前

1940年昭和15年)に施行された宗教団体法[注釈 7]を根拠として、政府は1941年(昭和16年)3月末日までに各宗派の自主的合同を終えるよう通達した[58]。ほぼこれは宗派合同への強制であった。これを受け、1941年(昭和16年)、日蓮正宗を除く富士門流寺院が属する本門宗は、顕本法華宗・日蓮宗と、それぞれの組織を解体して対等合併(三派合同)し、日蓮宗と公称した[59][60][61]

この文部省の強制的な通達に対し、日蓮正宗は、日興以来の伝統を護る為、宗派合同不承知を文部省宗務局へ訴え[62]、独立を保った[63]。このことは、昭和16年4月1日付けの朝日新聞「仏教の宗派は半減」「日蓮正宗(略)だけがそのまま一派として残った」からも読み取れる[64]

これによって全日蓮門下は4派となった[63]

太平洋戦争後

太平洋戦争後の八本山とその末寺の動きは次のとおり[65]

  • 富士大石寺は、日興の時代より継続し、開基檀那南条時光の寺院である日蓮正宗総本山としてその伝統を相承している。
  • 下条妙蓮寺とその旧末6か寺は、1950年12月(昭和25年)日蓮正宗に合流。残る旧末1か寺も1960年(昭和35年)に日蓮正宗に合流。旧末1か寺は、戦前より継続して日蓮宗に帰属。
  • 北山本門寺は、興統法縁会の縁頭寺として戦前より継続して日蓮宗に帰属し、同会を再編・存続。旧末36か寺も戦前より継続して日蓮宗に帰属。
  • 小泉久遠寺とその旧末4か寺は、戦前より継続して日蓮宗に帰属。
  • 西山本門寺は、1957年(昭和32年)3月本山単独で日蓮正宗へ合流(後に無効)。1975年(昭和50年)単立の宗教法人となる。旧末寺全12か寺は、戦前より継続して日蓮宗に帰属。
  • 伊豆実成寺とその旧末4か寺は、戦前より継続して日蓮宗に帰属。
  • 保田妙本寺とその旧末4か寺は、1957年(昭和32年)4月日蓮正宗に合流。1993年(平成5年)保田妙本寺と末寺2か寺は単立の宗教法人となる[注釈 8]。旧末寺9か寺は戦前より継続して日蓮宗に帰属。
  • 京都要法寺とその末寺約50か寺は、1950年(昭和25年)日蓮本宗を設立して日蓮宗から独立[66][注釈 9]。旧末寺34か寺は戦前より継続して日蓮宗に帰属。

寺院一覧

宗派別の寺院一覧は次のとおり。

 

脚注

注釈

  1. ^ 但し、これは、現在の富士門流全寺院が種脱勝劣を採用している、ということではない。例えば、(榎木境道 2007, p. 518)には、北山本門寺第47世貫主に立正大学教授片山日幹が就任して以降同寺の化儀・化法は富士門流のものとは異なる(要旨)、とあり、各寺院が現在どのような教判を主張しているかは、(宮崎英修 1978, p. 204)や(日蓮正宗宗務院 1999, p. 252)にある日蓮正宗(即ち、富士大石寺、下条妙蓮寺)を除き、不透明である。
  2. ^ (日蓮宗事典刊行委員会 1981, p. 1315)に、身延山の開山は宗祖、2世は日向とある。
  3. ^ (日蓮宗事典刊行委員会 1981, p. 651)には、石河能忠、とある。
  4. ^ 出典には、「天明六(一七八五)年」とあり、和暦に従った。
  5. ^ 興門派・妙満寺派八品派本成寺派本隆寺派
  6. ^ (金岡秀友 1979, p. 205)(斎藤昭俊 1988, p. 441)には、大石寺が本門宗より独立して日蓮宗富士派と称したのは1899年(明治32年)、日蓮正宗と改称したのは大正元年、とそれぞれある。
  7. ^ 1939年(昭和14年)4月8日法律第77号
  8. ^ 保田妙本寺には、保田妙本寺の独立は1995年(平成7年)、とある。
  9. ^ (影山堯雄 1979, p. 附録18)には、要法寺が日蓮本宗と称したのは1948(昭和23年)、(金岡秀友 1979, p. 203)には、要法寺が日蓮宗より独立して日蓮本宗と称したのは1952年(昭和27年)、とそれぞれある。

出典

  1. ^ a b 宮崎英修 1978, p. 220a.
  2. ^ a b c d e 日蓮宗事典刊行委員会 1981, p. 651a.
  3. ^ 有賀要延 1975, p. 184.
  4. ^ 宮崎英修 1978, p. 204a-但し、日蓮正宗(即ち、富士大石寺、下条妙蓮寺)が勝劣派であることのみ。
  5. ^ 日蓮正宗宗務院 1999, p. 252-但し、日蓮正宗(即ち、富士大石寺、下条妙蓮寺)が勝劣派であることのみ。
  6. ^ 宮崎英修 1978, p. 204b.
  7. ^ a b 金岡秀友 1979, p. 205a.
  8. ^ 日蓮正宗宗務院 1999, pp. 97–98.
  9. ^ 宮崎英修 1978巻末表
  10. ^ 日蓮宗事典刊行委員会 1981, p. 691-但し、富士五山に含まれない3か寺の宗派は除く。
  11. ^ 宮崎英修 1978, p. 220b-但し、輪番を軸とすることを除く。
  12. ^ 『原殿御返事』正応元年十二月十六日 日興筆。但し、波木井実長と門祖に関することのみ。
  13. ^ 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 2002, p. 182.
  14. ^ 富士学林研究科 2006, pp. 7–8, 12.
  15. ^ 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 2002, p. 181-但し、身延山付嘱書の別名が別付嘱書・池上相承であること、二箇相承の一であること、別当退任の時期を除く。
  16. ^ 日蓮正宗宗務院 1999, p. 230-但し、門祖が宗祖滅後7年間身延に住んだとすることのみ。
  17. ^ 宮崎英修 1978, p. 185.
  18. ^ 日蓮宗事典刊行委員会 1981, p. 294.
  19. ^ 富士学林研究科 2006, p. 156.
  20. ^ 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 2002, p. 116.
  21. ^ 日蓮宗現代宗教研究所 2006, pp. 68–82.
  22. ^ a b 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 2002, p. 183.
  23. ^ 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 2002, p. 185a.
  24. ^ 日蓮宗事典刊行委員会 1981, pp. 463, 651-但し、北山本門寺に談所を開いたこと(P.463)、1298年(永仁6年)に地頭石河能忠の外護の下重須に本門寺を創建しここに談所を開き子弟を育成したこと(p.651)のみ。
  25. ^ 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 2002, p. 185b-但し、重須に談所を設け35年にわたって住み子弟を育成したことのみ。
  26. ^ 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 2002, p. 189.
  27. ^ 日蓮宗現代宗教研究所 2006, pp. 48–59.
  28. ^ 日蓮宗事典刊行委員会 1981, p. 651b-本六人以降の記述。但し、出典のある記述は除く。
  29. ^ a b 執行海秀 1952, p. 136.
  30. ^ a b 執行海秀 1952, p. 137.
  31. ^ 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 2002, pp. 198–199-但し、この一文のことのみ。
  32. ^ 執行海秀 1952, pp. 136–137-本節の始まりよりここまでのこと。
  33. ^ 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 2002, pp. 195–196.
  34. ^ 執行海秀 1952, p. 138.
  35. ^ 執行海秀 1952, pp. 139–140.
  36. ^ 執行海秀 1952, pp. 141–142, 148.
  37. ^ 執行海秀 1952, p. 146.
  38. ^ 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 2002, pp. 121–123.
  39. ^ 執行海秀 1952, p. 147.
  40. ^ 執行海秀 1952, pp. 275–276.
  41. ^ 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 2002, p. 206.
  42. ^ 榎木境道 2007, pp. 405, 440-京都要法寺はp.405、それ以外はp.440
  43. ^ 榎木境道 2007, pp. 450–451.
  44. ^ 日蓮宗事典刊行委員会 1981, p. 818.
  45. ^ a b 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 2002, p. 230.
  46. ^ 榎木境道 2007, pp. 452–453-明治7年一致・勝劣に別れたこと以降の記述。但し、要出典部分は除く。なお、本書p.453には、本門宗への改称が許された1889年(明治32年)時点での興門派は「大石寺を除く」ともある。
  47. ^ 斎藤昭俊 1988, p. 458-但し、富士門流が1876年(明治9年)に独立して日蓮宗興門派と称したこと、1899年(明治32年)に本門宗と改称したことのみ。
  48. ^ 榎木境道 2007, pp. 495–496.
  49. ^ a b 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 2002, p. 224.
  50. ^ 日蓮宗現代宗教研究所 1981, p. 117-但し、1900年(明治33年)に、日蓮宗富士派が独立発表式を挙行したことのみ。
  51. ^ 金岡秀友 1979, p. 205b-但し、大石寺が本門宗より独立して日蓮宗富士派と称したことのみ。
  52. ^ 斎藤昭俊 1988, p. 441-但し、大石寺が本門宗より独立して日蓮宗富士派と称したことのみ。
  53. ^ 榎木境道 2007, p. 510.
  54. ^ 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 2002, p. 231.
  55. ^ 日蓮宗現代宗教研究所 1981, p. 191.
  56. ^ 木村勝行 1995, pp. 61–62-但し、1872年(明治5年)に不受不施派を除く日蓮系教団一致・勝劣両派が合同したこと、1874年(明治7年)に日蓮宗一致派・日蓮宗勝劣派の二派になったこと、1876年(明治9年)に勝劣派が八品派・興門派・妙満寺派・本成寺派・本隆寺派の5派になったこと、1899年(明治32年)に興門派が本門宗に改称したこと、1900年(明治33年)に大石寺が本門宗より独立して日蓮宗富士派と称したこと、1912年(明治45年)に日蓮宗富士派が日蓮正宗と改称したことのみ。
  57. ^ 本間裕史 1995, p. 63-但し、1899年(明治32年)に興門派が本門宗に改称したこと、1900年(明治33年)に大石寺が本門宗より独立して日蓮宗富士派と称したこと、1912年(明治45年)に日蓮宗富士派が日蓮正宗と改称したことのみ。
  58. ^ 近江幸正 1995, pp. 60–61.
  59. ^ 金岡秀友 1979, p. 203.
  60. ^ 斎藤昭俊 1988, p. 427.
  61. ^ 日蓮宗現代宗教研究所 1981, pp. 388, 737.
  62. ^ 榎木境道 2007, p. 516.
  63. ^ a b 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 2002, p. 233.
  64. ^ 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 2002, p. 234-但し、康熙字典体踊り字は改めた。
  65. ^ 本間裕史 1995, pp. 63–64-但し、1950年(昭和25年)に京都要法寺が単立となり日蓮本宗と称したこと下条妙蓮寺が日蓮宗より日蓮正宗へ帰属したこと、1957年(昭和32年)に西山本門寺が単立になったこと保田妙本寺が日蓮宗より日蓮正宗へ帰属したこと、論文執筆時点で北山本門寺と小泉久遠寺が日蓮宗に包括されていること富士大石寺と下条妙蓮寺が日蓮正宗に包括されていること西山本門寺が単立であること、同時点で日蓮宗に所属する旧本門宗末寺数が北山本門寺末36か寺小泉久遠寺末4か寺柳瀬実成寺末4か寺下条妙蓮寺末1か寺保田妙本寺末9か寺京都要法寺末34か寺西山本門寺末12か寺であることのみ
  66. ^ 日蓮宗現代宗教研究所 1981, p. 449-但し、1950年(昭和25年)に京都要法寺が単立となり日蓮本宗と称したことのみ。

参考文献

  • 有賀要延『日蓮各派の教学:天台法華学からの超絶と流水』山喜房佛書林、1975年5月23日。ASIN B000J9B86MNCID BN02853291OCLC 27115294 
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