コンテンツにスキップ

井出宣時

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

井出 宣時(いで のぶとき、1886年明治19年)11月9日[1][2] - 1958年昭和33年)7月13日[1][注 1])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓・前田。

経歴

[編集]

愛知県出身[1]。前田徳次郎の二男として生まれ、井出治陸軍主計中将の養子となる[1]。攻玉社中学校(現攻玉社中学校・高等学校)を経て、1909年(明治42年)5月、陸軍士官学校(21期)を優等で卒業[2][3][4]。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第6連隊付となる[1][3]。1917年(大正6年)11月、陸軍大学校(29期)を首席で卒業した[2][3][5]

1918年(大正7年)7月、参謀本部勤務となり、参謀本部員、イギリス駐在などを経て、1924年(大正13年)8月、歩兵少佐に進級し宇垣一成陸軍大臣秘書官となる[1]。1928年(昭和3年)8月、歩兵中佐に進級[1]歩兵第80連隊付、陸軍省軍務局課員、陸大教官を務め、1932年(昭和7年)8月、歩兵大佐に進級[1][3]。1933年(昭和8年)8月、歩兵第3連隊長に就任し[1][3]二・二六事件に部下から多くの者が加わった。

1935年(昭和10年)12月、参謀本部課長に転じ、関東軍司令部付(満州国軍軍事顧問)を経て、1937年(昭和12年)3月、陸軍少将に進級して歩兵第18旅団長に発令され日中戦争に出征[1][2][3]南京攻略戦徐州会戦などに参加[2]。1938年(昭和13年)7月、第10師団司令部付となり、1939年(昭和14年)8月、陸軍中将に進級して旅順要塞司令官に就任[1][2][3]。1940年(昭和15年)8月、予備役に編入された[1][2][3]

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[6]

栄典

[編集]
位階

 

勲章等

親族

[編集]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 『日本陸軍将官辞典』84頁では7月14日。

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 『日本陸海軍総合事典』第2版、13頁。
  2. ^ a b c d e f g 『日本陸軍将官辞典』84頁。
  3. ^ a b c d e f g h 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』259頁。
  4. ^ 『日本陸海軍総合事典』第2版。13、626頁。
  5. ^ 『日本陸海軍総合事典』第2版。13、566頁。
  6. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」36頁。
  7. ^ 『官報』第7998号「叙任及辞令」1910年2月23日。旧名:前田宣時
  8. ^ 『官報』第216号「叙任及辞令」1913年4月22日。旧名:前田宣時
  9. ^ 『官報』第1738号「叙任及辞令」1918年5月21日。
  10. ^ 『官報』第3301号「叙任及辞令」1923年8月1日。
  11. ^ 『官報』第535号「叙任及辞令」1928年10月5日。
  12. ^ 『官報』第1709号「叙任及辞令」1932年9月8日。
  13. ^ 『官報』第3101号「叙任及辞令」1937年5月8日。
  14. ^ 『官報』第7776号「彙報-陸軍省-生徒卒業」1909年5月29日。
  15. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。

参考文献

[編集]
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。