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白上佑吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

白上 佑吉(しらかみ ゆうきち、1884年明治17年)12月19日 - 1965年昭和40年)1月24日[1])は、日本の内務及び警察官僚。官選県知事。旧姓は林。陸軍大臣首相を務めた林銑十郎は実兄。

経歴

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石川県出身。父、石川県士族・林孜々郎が富山県礪波郡首席書記の時に、同郡出町(現砺波市)で三男として生まれる。その後、父の上司(郡長)で後に山口県警部長となった白上俊一[2]の養子となる[1][3]第四高等学校を卒業。1910年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し警視庁警部・第一部警務課勤務となる[1]

1910年12月、警視総監官房文書課審査係長兼高等課外事係長に就任。以後、警視庁警視・新橋警察署長、日比谷警察署長、麹町日比谷警察署長、京都府警視、長野県理事官富山県警察部長、朝鮮総督府高等警察課長、欧米各国出張(1920年6月)、京畿道警察部長、千葉県内務部長、警視庁官房主事、内務書記官警保局保安課長、兼内務監察官などを歴任[1]

1924年10月、鳥取県知事に就任。政府の方針に従い整理緊縮を実施するが、教育振興、産業振興、土木事業については配慮を行った[4]1926年9月、富山県知事に転任。電力開発の推進、射水中学校氷見中学校開設などに尽力[3]。売薬の海外進出やブラジルへの移民政策も実現させた。1927年5月17日に島根県知事に転任したが、「地方官は政府の使用人でも政党の雇い人でもない。富山県に対する愛県の至情を無視するような異動には応ぜられぬ」という理由で、翌日18日に依願免本官となった[5][6]。同年8月、文部省実業学務局長に就任し1928年6月まで在任し退官[1][7]

1929年4月から1931年7月まで東京市助役を務めた。在任中に東京瓦斯増資問題で賄賂を受けたとの嫌疑で裁判となり、1934年4月に東京地方裁判所で有罪(懲役10ヶ月)となり、その後、大審院で上告が棄却され懲役6ヶ月の有罪判決が確定し下獄した[1]。これにより従四位を失位[8]勲三等及び大礼記念章(大正/昭和)帝都復興記念章を褫奪された[9]

戦後、1951年8月まで公職追放となった[1]。その後、恵比寿食糧運送会社会長を務めた[10]。 墓所は渋谷区千駄ヶ谷瑞円寺

親族

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g 『日本近現代人物履歴事典』272頁。
  2. ^ 人事興信所編『人事興信録』第8版、1928年、シ109頁。『日本近現代人物履歴事典』272頁では「白上佑一」。万延元年4月生、1929年2月13日没。
  3. ^ a b 『新編日本の歴代知事』432頁。
  4. ^ 『新編日本の歴代知事』764頁。
  5. ^ 『新編日本の歴代知事』788頁。
  6. ^ 『北日本新聞』2020年10月19日付31面『知事を知る逸話<11> 他県異動に反発 即辞任』より。
  7. ^ 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』197頁。
  8. ^ 官報 1936年11月16日 三六三頁
  9. ^ 官報 1937年1月13日 二三二頁
  10. ^ 『朝日新聞』(東京本社発行)1965年1月25日朝刊、11面の訃報より。
  11. ^ 白上謙一『ほんの話』(教養文庫)P.109
  12. ^ 白上謙一『ほんの話』(教養文庫)P.76

参考文献

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  • 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
  • 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
  • 秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年。