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篠塚和典

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
篠塚 和典(篠塚 利夫)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 千葉県銚子市
生年月日 (1957-07-16) 1957年7月16日(67歳)
身長
体重
176 cm
68 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 二塁手
プロ入り 1975年 ドラフト1位
初出場 1977年8月5日
最終出場 1994年10月26日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 読売ジャイアンツ (1995 - 2003, 2006 - 2010)
  • 日本代表 (2009)

篠塚 和典(しのづか かずのり、本名・旧登録名篠塚 利夫〈しのづか としお〉1957年昭和32年〉7月16日 - )は、東京都豊島区生まれ、千葉県銚子市出身の元プロ野球選手内野手、右投左打)・コーチ解説者評論家

愛称は「シノ」「シノさん」。

経歴

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プロ入りまで

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千葉県立銚子商業高等学校2年生の時(1974年)、3年生エース土屋正勝を擁し、春(第46回選抜)・夏(第56回全国選手権)の甲子園大会に4番打者、三塁手として連続出場。は準々決勝で報徳学園に2-1で惜敗[1]は全て圧勝で順調に勝ち進み、8月19日の決勝で防府商を7-0で降し夏の甲子園同校初の優勝を飾る。この大会から金属バットが初導入されたが篠塚はプロ野球に進んだ時に適応できるように木のバットで打席に入り[2]、2本塁打を放った。

翌年夏の千葉大会は準決勝で小川淳司のいた習志野高に1-2で敗退。習志野高は夏の甲子園で優勝[3]し、2年連続で千葉県勢が優勝した。

甲子園優勝の後に湿性肋膜炎にかかり3か月間入院。一時は野球生命まで危ぶまれたものの半年後に復帰した。病室での静養中はベッドから天井をめがけて延々とスローイングの練習を行い、指先の感覚を養い、肘の出し方を覚えた[4]。当時の巨人監督だった長嶋茂雄に見込まれ、1975年度ドラフト会議にて巨人から1位指名を受けて入団。高校の1学年後輩に宇野勝がいる[5]

元々本人は入院を経てすぐにプロ入りは体力的に厳しそうだと考えて高校卒業後は社会人野球の日本石油(現ENEOS)に進む方針を固めていたが、当時の長嶋茂雄監督が球団幹部やスカウトが「体力的に無理」と反対するのを押し切って指名を決めたことから入団に至った。長嶋は篠塚の2年生の時の打撃をテレビ中継で見て惚れ込み、指名を決意したという。以来篠塚は引退までの間、「長嶋さんに恥をかかせられない」という思いをプロ野球生活における原動力とした[4]。後に篠塚が聞いたところによると、長嶋は篠塚が入院した病院に電話を掛け、篠塚の病気が完治していることを確認した上で「他球団が問い合わせてきたら、まだ治っていないと言ってくれませんか」と頼んだという[4]

現役時代

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プロ2年目の1977年に初の一軍昇格。1979年には一軍に定着、主に二塁手遊撃手として18試合に先発出場。1979年オフに地獄の伊東キャンプに参加した。1980年にはジョン・シピンと二塁手の定位置を争い、6月にはレギュラーを奪取して2番打者に座る。

1981年開幕当初は、藤田元司監督に代わりこの年のルーキーであった原辰徳が二塁を守ったため出場機会が減少。しかし5月には三塁手の中畑清が故障、原が三塁に回り、篠塚が二塁手のレギュラーに復帰。以降は主に3番打者にすわり、内野陣が固定された。藤田平(阪神)と首位打者争いし、超接戦といわれるほどの打率の差の勝負をし続け[6]、最終的にわずか1厘差でタイトルを逃すものの自身の現役生活歴代で.357という最高の打率を記録[7]日本ハムファイターズとの日本シリーズでは4試合に先発出場。第5戦では木田勇から駄目押しの3点本塁打を放ち、最終第6戦では間柴茂有から2回に先制適時打、勝利打点を記録した。1973年の最後のV9以来、8年ぶりの日本一に貢献。

1982年、9月15日に後楽園球場で開催された中日ドラゴンズとの23回戦で無死一・二塁の場面で送りバントをした際、相手投手の郭源治が三塁へ悪送球し、外野へ転がったがそのボールを左翼手大島康徳がトンネルし、さらに大島が追いかけて捕ったボールが三塁手に中継され本塁へ投げたが、捕手中尾孝義が取り損ない、その間に打者走者の篠塚もホームインした(記録上は失策であったがランニング本塁打のような出来事だった)[8]。このプレーはフジテレビ系番組『トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜』で紹介され、同番組のVTRに篠塚本人は出ていないものの、補足トリビアで「あの守備はプロとして恥ずかしいプレー。あってはならないことだと思う」とコメントしている[8]

1984年、打率.334、12本塁打で王監督1年目のシーズンに自身初の首位打者に輝く。二塁打35も最多だった。この年、ウォーレン・クロマティが初来日したが、3番篠塚、4番原、5番レジー・スミス、6番クロマティ、7番中畑という打順が多く採用された。

1987年に広島正田耕三と同率で2度目の首位打者を獲った。同率での首位打者はセ・リーグでは初の出来事であった。両リーグを合わせても1969年東映張本勲近鉄永淵洋三につぐ2度目。いずれも打率は.333だった。正田とは同じ二塁手で、ベストナインが注目されたが、チーム順位・安打数・本塁打数が上回る篠塚が受賞した。

1987年10月18日の吉村禎章の30号が「2ストライク4ボールからの本塁打」だったが、中畑清の談話によると、日本シリーズを前にした消化試合で吉村の打席には誰も興味がなく、ベンチで異変に気づいた選手は篠塚ひとりだったという。その西武との日本シリーズでは最後の打者となったが、この年を最後に後楽園球場での試合開催が終了したため、後楽園球場にとっても最後の打者となった。日本シリーズは西武に2勝4敗で敗退したが篠塚は22打数9安打3打点1本塁打の記録で、シリーズ敢闘賞を獲得している。

線審を廃し審判6人制から4人制になった1990年の開幕戦、ヤクルトに1対3と負けていた8回裏、好投を続けていた内藤尚行から右翼ポール際への飛球を放ち、一塁審判が本塁打と判定した。その年のバラエティ番組で上記の疑惑の本塁打についてコメントを求められ「あれはファウルでしたね」と発言している。原因はポールがボールと類似色の白い塗料で塗られていたため判定が非常にわかりづらかったことであり、この件の後に東京ドームのポールは白→黄(後にオレンジに再度変更)に塗り替えられた。

晩年の1990年から1993年までは持病の腰痛の悪化などもあり、若手の緒方耕一が二塁を守る機会が多くなったことなどから300打席前後の出場となった。1991年8月には出場機会の減少に対しての不満から「必要じゃなければトレードに出してほしい」とある夕刊紙にて発言、19日に球団から首脳陣批判の言動を理由に厳重注意と罰金100万円の処分を受けた[9]

1992年6月30日から名前を「利夫」から「和典」に変えた。「『利夫という名前には分裂、分離の意味がある』ということで知り合いの内気功の先生から勧められた」という[10][11]

1993年は、66試合で打率.337、4本塁打、23打点を記録。5月15日の広島戦で1991年7月以来2年ぶりの本塁打となる自身通算3本目の満塁本塁打を打つ[12]。6月9日の対ヤクルト戦(石川県立野球場)では、8回2/3まで無失点、16奪三振(当時セ・リーグタイ記録)の投球を続けていた当時のルーキー伊藤智仁から9回二死からのサヨナラ本塁打を放った[13]。この試合はスタメンを外れており、ベンチから伊藤の投球を見て「みんな、スライダーかフォークでやられている」と観察していた。当時抑え役だった石毛博史がブルペンで投球練習を開始すると、打席に立って目を慣らした。9回表に二塁手として途中から出場し、その裏に初打席を迎えた。間合いを取るために2度打席を外したが、その間に「何かグッとくるものがあった」と言い、伊藤の初球を右中間スタンドへ運んだ[13]

1994年は持病の腰痛が悪化の影響もあり57試合に出場して打率.238、2本塁打、13打点の成績にとどまる。シーズン終了後に現役続行か引退するかで悩むが、チーム事情と今後の自分の野球人生を考え、「過去にしがみつくより惜しまれながらやめたい」として、この年限りでの現役引退を決めた[14]

引退後

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引退後は巨人の一軍打撃コーチ、一軍内野守備コーチ、一軍内野守備・走塁コーチ、一軍総合コーチを歴任。2004年から2005年までは日本テレビアール・エフ・ラジオ日本野球解説者、日刊スポーツ野球評論家を務めた。

2006年に巨人の内野守備・走塁コーチに就任。2007年から2010年まで打撃コーチを務めた。また、イチローの中前安打で勝負を決した、2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表の打撃コーチも兼任した。

2011年からは再び日本テレビ、ラジオ日本野球解説者、日刊スポーツ野球評論家などを務めている。2012年1月には韓国プロ野球・LGツインズの臨時コーチを務めた。

人物

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プレースタイル

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巧みなバットコントロールと華麗な守備で鳴らし、"芸術的"と言われるプレーで、シーズン打率3割以上を5年連続も含めて7回記録。通算打率も.304と3割を超えている。年間失策数も僅か2回のみの年があるなど、守備機会の多い二遊間の選手としては驚異的であった。1981年は巨人では主に3番打者や2番、6番打者、晩年は1番打者の打順を担った。1981年の.357という高打率は巨人の日本人野手として1973年の王貞治(.355)、1961年の長嶋(.353)の記録を凌ぐ、高打率であった(1951年の川上哲治は91試合で.377)。ただし本塁打は、最多の年でも13本、通算でも100本に満たない。他の打順ならともかく3番打者としては、長打力が物足りなかった(同時代の似たタイプで、主に3番を担った打者として若松勉がいるが、こちらは20本塁打以上打った年が2度有り、通算でも220本打っている)。

高校時代はスラッガーだったが、肋膜炎を患ったことで巨人以外の球団に指名を回避され、さらに細身の体をカバーするため阪神藤田平のバッティングを参考にし、その藤田とは首位打者を争った[注 1]

長打を狙うバッティングに瞬時に切り替えたり、広角に打球を操る器用な選手で、進塁打は打てたものの、バントなどを売り物にしてはいなかったため、制約のある2番打者を任された1985年・1986年は打率.307、.291と成績を落としている。1985年に犠打26を記録した。逆に、自由度の高かった1984年には.334で首位打者を獲得。1987年の首位打者獲得時もチームは優勝している。規定打席には9回到達しているが、腰痛持ちであり、夏場などにスタメンを外れていた。最後に規定打席に到達した1989年には、梅雨時に10数試合スタメンを外れている。1982年、1984年、1985年、1986年は520打席以上をクリアしており(当時は130試合制)、チームの選手の中で最も多く打席に立っていた年もある。

公式戦の通算打率は.304を記録しており、オールスター戦での通算打率も.327(55打数18安打)を残している。日本シリーズでも1987年に打率.409を記録するなどしているものの、シリーズ通算打率は.292(106打数31安打)で、あと1本安打を放っていれば、公式戦、オールスター戦、日本シリーズ全てで通算打率3割を達成できていた(この記録を達成している選手は日本プロ野球では2012年時点の記録では長嶋茂雄鈴木尚典のみであった)。

選手生活を通しては2桁本塁打シーズンが2回のみ、通算本塁打率は日本プロ野球史上の通算打率上位30傑(4000打数以上、2019年現在14位)では最小の数字となっている。一方で二塁打については1980年代は中畑、原を凌ぎチーム最多であり、典型的な中距離打者として一貫した選手生活であった。

その他

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槙原寛己にスライダーを教えたという逸話が残っている。1986年、槙原が試合前に投球練習をしていたところ、篠塚もそこで遊びで投球を始め、スライダーを投げた。そのスライダーを見て凄いと思った槙原は篠塚に握り方を教わり、その握りで試しに投げてみると「驚くほど横に滑るような感じで曲がった」という[15]。それまでストレート主体で一本調子で、王監督時代はバックスクリーン3連発や9連勝ストップなど勝負どころでよい結果が残せなかった槙原が、その後、完全試合を達成したり、西武を倒し日本シリーズMVPに輝くなど投球の幅を拡げるきっかけのひとつになったと言われている。

コーチとして

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試合前の練習風景では、監督の原辰徳や打撃コーチの村田真一が若手・中堅選手を担当しているのに対して、不調時の小笠原道大アレックス・ラミレスなどの主軸打者と笑顔でトスバッティングの相手を務める様子が映っている。また、2010年シーズン前半に打撃不振に陥っていたエドガー・ゴンザレスは、7月末頃から好調になったことについて8月13日の対横浜戦後のヒーローインタビューで問われた際に、「篠塚コーチとの打撃練習がいい形で実を結んでいる」と語った。結果的に篠塚コーチ時代にはチーム打率は常にリーグ上位だった。コーチ時代には、高橋由伸阿部慎之助二岡智宏坂本勇人亀井義行長野久義らの選手が育っていったがいずれも打率が良く、スランプ時の指導などをしていた。

打撃理論・指導理論は、理想のフォームを綿密に固めたうえで、準備を整え、シンプルに「来た球を打つ」というスタイルである。

長嶋(第2次)時代には長らく内野守備コーチを担当していた。原(第1次)時代は総合コーチを担当、原と共に攻撃面・作戦面を統括していた。

用具

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現在でも篠塚の使っていたバット、グラブなどを基本にして自分モデルとして使用しているプロ選手も少なくなく、元横浜の石井琢朗や元中日の立浪和義ら左のアベレージヒッターの多くは影響を受けたと語っている。特にイチローは篠塚モデルのバットをほとんど修正することなく使用していた[16][17][18]。立浪は、少年時代に憧れた選手が篠塚で、1年目の1988年に、巨人戦で出塁した際、二塁ベース上で「篠塚さんのバットをください」と声をかけたところ、篠塚はこれに応え、試合後に中日ベンチに届けたという逸話もある。(この時のバットは、引退後も自宅に飾ってあると後年語っている。)グラブは素手で掴むのに近いように小さめのものを愛用し、その感覚を大事にして手袋はせずに使用していた。そのため汗で痛んでしまい数年ごとに替えていたという。

家族

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主に1950年代に活躍した映画プロデューサーの三上訓利丹波哲郎上原謙金子信雄高島忠夫らと親交があった)と女優の折原啓子は妻の父母で、俳優の三上博史は妻のいとこにあたる。長男の篠塚宜政は青山学院大学に在籍したのち、2012年春から社会人野球Hondaに所属。2012年4月9日神宮でのHonda vs 立教大学戦で、ルーキーとして2点リードの7回に代打で登場し、3球目の直球を右翼スタンドへ社会人初本塁打を放った。同じく右投左打の二塁手。2020年11月の都市対抗で、日本一に。

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1977 巨人 18 26 24 2 5 0 0 0 5 0 0 0 0 0 2 0 0 4 0 .208 .269 .208 .478
1978 3 7 7 0 2 0 0 0 2 2 0 0 0 0 0 0 0 2 0 .286 .286 .286 .571
1979 76 97 90 11 25 2 2 0 31 10 1 0 1 0 6 0 0 14 7 .278 .323 .444 .767
1980 115 351 315 38 82 13 3 6 119 31 6 3 11 2 22 0 1 31 9 .260 .309 .378 .687
1981 116 457 412 51 147 21 2 7 193 45 2 5 14 1 29 6 1 39 9 .357 .400 .468 .868
1982 124 523 467 64 147 26 6 7 206 67 5 0 11 7 35 3 3 32 10 .315 .361 .441 .802
1983 115 473 424 79 130 21 2 13 194 56 10 2 6 4 38 1 1 42 8 .307 .362 .458 .819
1984 126 524 461 75 154 35 2 12 229 66 7 2 9 1 51 2 2 49 7 .334 .402 .497 .899
1985 122 538 466 57 143 21 1 8 190 54 6 2 26 1 42 1 3 45 6 .307 .367 .408 .775
1986 128 529 485 64 141 25 3 8 196 43 3 2 17 4 23 2 0 54 8 .291 .320 .404 .724
1987 115 454 429 69 143 25 3 7 195 49 4 1 7 3 14 0 1 52 8 .333 .353 .455 .808
1988 116 456 414 37 131 18 1 6 169 58 2 2 8 3 29 3 2 31 12 .316 .362 .408 .770
1989 119 494 461 59 134 28 4 4 182 38 5 4 9 2 20 3 2 38 9 .291 .322 .395 .716
1990 71 253 232 31 66 11 1 5 94 29 1 0 4 1 15 1 1 27 5 .284 .329 .405 .734
1991 97 328 289 31 77 9 2 3 99 23 1 1 3 3 32 3 1 49 4 .266 .338 .343 .681
1992 67 257 241 22 64 10 0 0 74 21 2 1 1 1 14 3 0 35 4 .266 .305 .307 .612
1993 66 226 208 27 70 8 0 4 90 23 0 0 2 1 13 0 2 21 4 .337 .379 .433 .812
1994 57 161 147 22 35 5 0 2 46 13 0 0 3 1 9 2 1 15 5 .238 .285 .313 .598
通算:18年 1651 6154 5572 739 1696 278 32 92 2314 628 55 25 132 35 394 30 21 580 115 .304 .351 .415 .766
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

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表彰

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記録

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初記録
節目の記録
その他の記録

背番号

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  • 37(1976年 - 1978年)
  • 6(1979年 - 1994年)
  • 81(1995年 - 2003年、2006年 - 2010年)

登録名

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  • 篠塚 利夫(しのづか としお、1976年 - 1992年6月30日)
  • 篠塚 和典(しのづか かずのり、1992年7月1日 - )

関連情報

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著書

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  • 熱球悲願 嵐をこえて(1981年、恒文社)
  • ミスターがくれた19年(1995年、ベースボールマガジン社)
  • プロが教えるバッティング入門(2002年、大泉書店)
  • 6歳からの広角打法(2007年、MCプレス)
  • 篠塚和典 流し打ちの極意(2013年、ベースボールマガジン社)
  • 篠塚和典が教える広角打法(2019年、日東書院本社)

シングル

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  • RAINY HEART/黄昏にもう一度(1988年1月、バップ

脚注

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注釈

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  1. ^ 2007年に小学生への指導経験から出版した「6歳からの広角打法」という指導書では、当初は「阪神ファンだったので藤田平さんに憧れていた」としている。

出典

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  1. ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
  2. ^ 長嶋監督が直電して病院に“懇願”…元巨人・篠塚氏の入団左右した高校時代の入院秘話(1/3ページ) Full-Count 2020年10月20日(2021年8月22日閲覧)
  3. ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」 朝日新聞社編 1989年
  4. ^ a b c 長嶋監督が直電して病院に“懇願”…元巨人・篠塚氏の入団左右した高校時代の入院秘話(2/3ページ) Full-Count 2020.10.20 (2021年8月22日閲覧)
  5. ^ (2ページ目)宇野勝氏、本人が語った! 「ヘディング事件」や「掛布とのHR王争い」の真相」『AERA dot.』2020年6月12日。2024年6月10日閲覧
  6. ^ 今でも破られていない「6糸差」の首位打者争い 其の一34
  7. ^ 【あの名場面の裏側】G戦士編 初のクリーンアップで猛打賞、名選手・篠塚の誕生 「二塁は原で決まり」の絶望感を打ち破る (1/3ページ) - zakzak:夕刊フジ公式サイト
  8. ^ a b フジテレビトリビア普及委員会『トリビアの泉〜へぇの本〜 11』講談社、2005年。
  9. ^ 読売新聞1991年8月20日21面「巨人・篠塚に罰金百万円」読売新聞1991年8月p.853
  10. ^ 日刊スポーツ1992年7月1日2面
  11. ^ 別冊ベースボール『よみがえる1990年代のプロ野球 PART9 1992年編』(2021年10月刊)76頁
  12. ^ 読売新聞1993年5月16日21面「内角球にマト読みがズバリ」読売新聞縮刷版1993年5月p.579
  13. ^ a b 読売新聞1993年6月10日17面「SBO たった1球失投 9回二死、篠塚逃さず」読売新聞縮刷版1993年6月p.457
  14. ^ 読売新聞1994年11月16日18面「『惜しまれてやめます』篠塚」読売新聞縮刷版1994年11月p.776
  15. ^ 槙原寛己『パーフェクトとKOのあいだ ここ一番の投球心理』カッパ・ブックス、2002年、p.114
  16. ^ 【イチローの憧れ&驚き秘話】本物のプロはここまでこだわる!バット・グローブ論【篠塚モデル】【篠塚和典さん4/5】
  17. ^ 【vol.6】イチローのバットの起源 バットの握りに隠された秘密とは
  18. ^ 数ある木の角材の中から、良質な一本を選び抜く。イチローがメジャーで3000回も響かせてきた快音は、バット職人の妥協なき姿勢が生んだものだった。

関連項目

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外部リンク

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